『鋸』の著者の自伝。
その人生において著者は3つの業績を残している。
自由律俳句の句作と地域俳句史の研究。
能面製作。
鋸を中心とした刃物の技術史研究。
作品的な意味での業績は以上だが、著者の本業は鋸の目立て業であり、本業以外の仕事を著者は「遊び」と称している。
人にとって、まずは暮らしが必要なのである。
鋸の目立てとは、切れなくなった鋸刃を研いで切れるようにすることである。
地味な仕事だし、手間賃は安い。
仕事が雑ならもちろん、苦情を言われなければならない。
シゴトとはほんらい、そういうものだと著者は考えているようだが、同感だ。
シゴトの対価は市場原理で評価しようとすると、おかしくなる。
株の売買のように投機的な利益は、投じた労力と対比して大きすぎるし、農林産物は、投じられた労力に比して対価が安すぎる。
著者はおそらく、額に汗して働く者が人生を誇りうるのだと考えている。
これが人間たるものの王道である。
歴史研究をなりわいとしてでなく、「遊び」として行う、と述べるところに生活者としての著者のプライドがある。
また、自分が職人(生活者)であり、実験史学(?)の方法に立っているからこそ、歴史の真実に迫ることができるのだという自負が感じられる。
例えば、『塩の道』には、古い時代に日本には縦挽きの鋸は存在しなかったと記されているが、著者は、平安期にはすでに縦挽鋸が存在したことを実証した。
同書にはまた、日本の鋸が引き切りであることを、日本人の民族性と関連させて論じているが、著者は、引き切りであるかどうかは鋸刃の形状によるのだと喝破している。
著者の人生には、大正〜昭和のほぼ全期間が含まれる。
従軍経験こそなかったが戦争は、著者にとっても、親しい人々を亡くし、空襲に焼かれた酷薄な時代だった。
戦争を拒否する感覚もまた、強く共感できた部分だった。
(下巻 ISBN4-540-89112-X C0139 P1500E 1989,11 農文協 2009,3,4 読了)