ずっと以前に、中公新書版(1969)を読んだ記憶があるので、再読。
初めて読んだときにはさほど感じなかった、歴史叙述に対する著者の野心を心地よく楽しみながら読むことができた。
著者は、戦後の歴史学について、「制度考証論か、構造論のルーティンなしきたりにすっかりおさまっている」「人間存在の主体性が、いかなる立場からも、まっとうに問われることがほとんどない」と批判している。
本書の魅力は、孝謙(称徳)女帝と道鏡が、まさに生身の人間として登場し、悩みつつ行動し、(ヤマト政権の)歴史を作っていくさまが、天平の時代背景のもとに、生き生きと描き出されているところにある。
その点で、これは名著だと思う。
天平期のヤマト政権は、国費の相当部分を寺院の造営に注ぎ込んだし、行基・玄纊・道鏡ら、権力にかかわりをもつ高僧も複数存在し、仏教国家といってもよかった。
だが、権力者たちの信仰の内実がどれほどだったかは疑問で、鎮護国家の考え方は、結局、権力的な望みの実現を仏教に寄託することにほかならず、初詣にその年の御利益を期待する現代の庶民と、質的には同様だった。
称徳天皇にとって道鏡は、俗事に流されずアカデミックな態度で仏典に取り組む、尊敬すべきインテリ僧に見えたのかも知れない。
しかし、天平期のヤマト政権にとって、流浪の貧民の問題・東北地方住民(蝦夷)の抵抗の問題・地方間量の腐敗の問題など、重大問題が山積していたのであり、優先課題は、国家の経営にかかわる諸問題の方だった。
道鏡自身の発案と権力行使による政策は、ほとんどみられないから、実質的に称徳専制に近かったのだろう。
しかし、国家経営に傾注しきれない称徳女帝の専制支配は、遠からず崩壊する運命にあったのだろう。
称徳以後、ヤマト政権の王位が、天武系から天智系に移る。
称徳の次の光仁天皇は、ほとんど他人同然である。
だが国家に必要なのは、光仁の次の桓武のように「有能」な君主であった。
天平期の関東は、記録の上に出てくることもほとんどない。
平安初期になると関東は、東北侵略の兵站基地としてクローズアップされる。
記録に出てこない、奈良時代の関東は、どのような状態だったのだろうか。