1996年から1998年にかけての罵詈雑言集。
内閣で言えば、橋本内閣から小渕・森内閣にかけての時期だ。
小選挙区制による選挙が定着して、自民党とその亜流以外の政党が(議席上は)泡沫化し、政治的腐敗が進行して特権階級が考える社会づくりのための制度づくりが加速したのがこの時期だった。
この時期に成立した制度で忘れてならないのは、1996年の労働者派遣事業法改正だった。
こののち、派遣対象の拡大が進み、原則自由化へと流れていった。
2000年代に噴出した日雇い派遣・請負派遣をはじめとする派遣労働の悲惨な状況の転換点がここだったのだが、多くの国民には「規制緩和」の一環ていどにしか、受け取られてはいなかっただろう。
労働組合は、1989年の連合結成によってほぼ壊滅状態だったのだが、制度改悪を容易にしたのは与党も野党もさほど政策的に相違がないという、緊張感のない国会の状況だった。
1995年の少女暴行事件によって噴出した沖縄の怒りは、太田知事に米軍による私有地使用にかかわる代理署名を拒否させた。
当然のことだった。
しかし1996年、知事に代理署名を命じる最高裁判決が出された。
最高裁は、土地を奪われ、生きるすべを奪われ、安全を奪われ、静謐を奪われてきた50数年について、審理することさえなしに判断を回避して、沖縄の声に耳をふさいだのだった。
この裁判の原告が日本社会党選出の村山首相だった事実は、象徴的である。
反基地・反安保を貫いてきた社会党の40年は何だったのか。
その後の社会党が国民から完全に愛想を尽かされ、泡沫政党と化したのは当然の成り行きだった。
政治が右傾化するのに倣って、マスメディアはいちだんと凶悪な暴力装置と化した。
報道の目的は、少なくとも建前的には、民主主義や人権擁護に資することであったはずだ。
ところが商業マスコミは、営利のための報道である実態を隠そうともしなくなった。
営利に資することができるのであれば、不適切な報道やデマ報道も、個人への不当なパッシングも、何でもありになってしまった。
国営放送は、政府や特権層の代弁者という立場をさらにはっきりさせた。
いまや、信頼するに値するマスメディアは存在しない。
最後に学校におけるいじめの深刻化について。
著者は「学校はなんでもない」という価値観を提唱している。
確かに、学校はなんでもない存在であるべきだ。
しかし、学校からの脱落が経済的貧困層への道に直結してしまうという現実がある。
学校に背を向けるのではなく、学校を作り替える取り組みが求められている。