1998年から2001年にかけての、文字通り世紀末状態となった日本の政治・社会に関する罵詈雑言評論。
この時期の主たるトピックとしては、ガイドライン策定、JCOの臨界事故、通信傍受法、職業安定法改悪、日の丸・君が代法などだった。
どれもこれも、日本の支配者・特権階級が、自らの特権的状態を維持するために、国民を食い物にするための制度であり、それを原因とする大事故だった。
ガイドラインは、アメリカが起こす戦争に日本が参戦する仕組みだった。
これが整備されたことによって、アメリカの下僕である日本がいつでもどこでも、戦争に参画することができるようになった。
アメリカは民主主義の対極に位置する国であり、欺瞞と暴力がこの国の本質である。
殺した者が勝ちであるとか騙した者が勝ちであるという価値観に立たないならば、アメリカは存在してはならない国である。(その根拠はこちらやこちらなど)
アメリカにシッポを振る権力者の意図を、もっと分析してみたいものだ。
JCOの臨界事故については、早くも記憶の彼方に追いやられた感がある。
事故原因が亡くなられた従業員のマニュアル違反に矮小化されたのでは、気の毒だ。
核燃料製造工場のコストダウン追求の持つ意味がはっきりしなくなったのは、マスコミの弱点でもある。
事故後の臨界現場に特攻的突入を果たし、身体を張って事故の拡大を阻止した従業員の方々や被害者を救出した消防署員の方々は、相当の放射線を被曝しているはずだが、彼らはその後どうなったのだろうか。
通信傍受法の意図が国民を総合的に管理する点にあるのは明らかだが、収集された情報がどのような形でデータベース化されるのかは、まだ見えてこない。
現在のところ、来るべき国民データベース構築にむけて、個別にデータを収集しているという段階である。
個人の思想・嗜好・趣味・性行などを網羅した国民データベース構築にむけて、外堀は着々と埋められつつあると言える。
近年、もっとも残忍な形で展開しているのは、労働をめぐる制度の改悪である。
日雇い派遣・請負派遣のように、いつでも好きなときに労働者の首を切れる制度が一般化し、世代を問わず極貧困層が激増している。
フランスや韓国では、これらの人々が残酷なルールを作り労働者を収奪する特権層や政府に激しく抗議している。
日本もそうなるのではないかと思っていたが、日本人の社会感覚は稚拙なところで迷走しており、弱者が弱者を軽蔑・攻撃することに救いを見いだすという、救われないスパイラルに陥っているように思う。
特権層の立場は安泰なので、未熟なプロテストをする者に対する厳罰化が、さらに進行するだろう。
日の丸・君が代法が制定され、学校行事における日の丸・君が代の強制は、各地で犠牲者を伴いつつほぼ全国的に普及した。
このことによって学校の現場でもっとも大きく変わったのは、個々の教師や教師集団は、子どもたちや保護者に対し責任を持つのでなく、上司の命令に対し責任を持つという形になったことだろう。
よりよい教育をめざし議論する場であった職員会議は、この数年の間に、校長による命令伝達の場と化し、学校から議論が消えた。
本書には「市議や県議に縁故のあるひとが優先して採用されてきた。つまり採用の公平性が保障されていなかった」という指摘もある。
大分県で、教育委員会ぐるみの不正採用が明るみに出され、どこまで解明されるかは今後の展開次第だが、この問題をうやむやにするかどうかは、特権層のおこぼれに与(あずか)ろうとするコバンザメの存在を許すかどうかという問題である。
自浄作用はまったく期待できないが、トカゲのシッポ切りにはしてほしくない。