宇江敏勝『熊野修験の森』

 日本的精神とは何かという問題にも自分なりの見解を持たねばならないと思ってきたが、この年になってようやく、おぼろげながらその輪郭が見えてきたような気がする。

 もちろん、日本精神の原風景が熊野であるなどと言うつもりはない。
 この本などに目を通す中で、大峰から熊野一帯の山岳地帯や太平洋で自己と厳しく向かい合ってきた修験者の心根に、いくらか触れることができたような気がする。

 そこには、「建国神話」や仏教によってデフォルメされ、粉飾される以前の日本列島人が存在するように見える。

 ほとんどの宗教は、創唱者の時代に持っていた純粋さや清新さを、時とともに失っていき、単なる儀式・形式・権威と化していく。
 実際、山里暮らしの中では、仏事だけでなく、神事に立ち会うことがしばしばあるのだが、宗教とは名ばかりの、非合理的な金銭集めの手段にすぎない例も少なくない。

 仏教はもちろんだが、建国神話に由来する神道も、征服者の物語であり、日本列島土着民のオリジナルでない可能性が高い。(征服者も結局は日本列島民だから建国神話が日本人と無関係とまでいうことはできない)

 山岳や渓流に覆われた日本の大地に最もマッチした宗教は、修験道ではないかと思う。
 山岳をシンボライズしているのは岩であり、渓流のそれは滝である。

 人の生命も生き物の生命も、日本列島の大地や自然風土にはぐくまれて育つ。
 最も大いなる力は、大地や自然現象にみられる力であり、その力に与(あずか)ることによって、自分を立命し、他者を救うことが可能となる。

 修験道は、教義を体系化するオリジナルな術語を持たなかった(もしくは消滅した)ため、神道や仏教の用語を援用して理論化された。
 だから、修験道に登場する神仏たちを見るときには、その本体を見透すため心の眼で見つめなければならない。

 修験道が神道や仏教ほど権威化しなかったのは、山岳における徹底した修行=自己吟味によらずして救済をもたらす超能力を身につけることができなかったからだろう。

 本書は、近年復活した大峰修験の修行の一つである、大峰奥駈への参加記である。
 宗教である以上、形式は存在するが、ここでは実質的な修行が行われている。
 さらに驚くべきことに、捨身や断食という命がけの修行を行う行者が今も存在するという。

 命をかけるまでに修行をする素質が自分にあるとは思えないが、いつか自己を厳しく見つめながら、熊野と大峰を歩き通してみたいものである。

(ISBN4-88008-307-0 C0095 \2200E 2004,4 新宿書房 2008,5,22 読了)