サッチャとレーガンに象徴される新自由主義経済が、これほど苛酷なものだと思わなかったのは、私を含む多くの日本人にとってまことに迂闊なことだった。
日本は、1960年代から1970年代にかけて、新自由主義とはかなり異なる方向である、福祉国家的な国づくりを進めてきた。
それを可能にしたのは、高度経済成長だった。
自民党政権がそれを望むか否かにかかわらず、福祉的施策の充実を要求する野党の要求は根強かったし、増え続ける税収が、その実行を可能にした。
それができなければおそらく、政権がもたなかっただろう。
この時期の保守政治家がそうした現実を前にして、自らの理念をどのように形成していったかは、ちょっと関心がなくもない。
酷薄な時代の幕を開けたのはいうまでもなく中曽根政権で、その象徴が国鉄の民営化(と国鉄労働運動の解体)だった。
ここで国民的な反撃をしなかったのが、ひょっとすると日本を破滅させる致命的な判断ミスだったかも知れない。
1990年代にアメリカ社会は、弱肉強食化の様相を強めていった。
日本社会もそれに続いたが、本格的な変質は2000年代の小泉政権の登場を待たねばならなかった。
小泉時代以来の新自由主義化はその後も継続しているから、日本社会の分裂は今後、さらに深刻になっていくだろう。
この本に描かれているのは、日本の未来図でもある。
アメリカではまず、食が崩壊している。
世界最大の農業国でありながら、貧困層はジャンクフード漬けとなり、空腹と肥満が蔓延している。
おぞましく、悲惨なことだ。
土をチマチマとかき混ぜ、雑草の繁茂を嘆きながら、太陽と大地の恵みを得るという真っ当な暮らしに、いつか戻りたいと思ったって、こうなっては遅すぎる。
そして、医療の崩壊。
一度、病気や怪我をすれば、人生が終わるという社会など、とても考えられないのだが、医療への国家の関与を極力減らしてしまえば、そうなってしまうのである。
中流以下の人々は、一度の病気・怪我だけで、最貧困層に転落する。
医療費が高額すぎるのである。
盲腸手術が、一日の入院で約200万円を請求されるというなど、あり得ない気がするが、それが現実らしい。
貧困層の子どもたち・若者たちは、軍隊に入る以外に、まともに生きていける道はない。
軍に入れば生命の保障はなく、放射能被爆や精神的荒廃についても、自己責任で対処しなければならない。
若者がまともに生きていける見通しを持てないとは、何と酷薄な社会だろう。
こうした現実は、歴然たる格差によって生みだされつつある。
日本の未来をどうするのか、考えなければならないのは、今をおいて他にない。