日本人の精神生活の中に修験道が大きな存在だったのは、秩父に限ったことではないだろう。
人別帳などをみると、神官・僧・修験が村の中に何人かは暮らしている。
そのいずれもが何らかの役割をもって村落の中に位置していたわけである。
このうち僧は、寺請制のもとで、支配体制の一環としての機能も果たしていた。
また神官の役割については、今ひとつ鮮明でない。
江戸時代に民衆精神の中にもっとも根を張っていたのは修験だったと思われるが、その多くがが明治以降神社に「復飾」させられたため、今のわれわれには、明治以前の神社信仰を実際以上に大きく見えてしまう。
江戸時代民衆の神観念の実体は、明治以降の国家神道とは全く別ものだっただろう。
修験者の持つ知識や霊力はおそらく、現世利益を求める民衆によって支持され、大きな宗教勢力になったものと思われる。
しかし、修験道の理念が現世利益に尽きるわけではない。
修験道が各地に広まったのは中世だという。
先達と呼ばれる在地の布教者が、すでに権門・貴族から信仰されていた大峰・高野・熊野一帯の山岳修験を鼓吹し、在地の霊場が作られていった。
修験道の特徴の一つに、理念が中央集権的でないという点があげられる。
たとえば木曽御嶽山や三峰山と、大峰の霊場との関係は、どちらが上でも下でもない。
問われるのは、ステイタスでなく、行者自身にほかならない。
彼がどれだけ真剣に山や自然や自分自身と向かい合い、きびしく対決しているかが、すべての世界である。
そういう意味で、修験とは、偽物が通用する世界ではない。
それにしても本書に紹介されている中世の行者の厳しさには驚嘆する。
神に対し、限りなく正直でなければならない。
自分に対し、限りなくきびしくなければならない。
信仰=自己を完成させるために必要であれば、入水・焼身・投身によって命を投げ出すことさえ、いとわない。
かねがね、山歩きの目的の一つは、自分の卑小さを知るという点にあると感じていたが、その観念を突きつめていくとこんな世界に行き着くのだろう。
日本は、海と山に囲まれた世界である。
日本人の精神の基層に、自然の中で自己を問うという態度があるのは、否定できないと思われる。