著者は、20世紀は唯物史観が破綻した時代ととらえているようだ。
著者はもちろん、唯物史観だけを目の敵にとしているわけではない。
科学の進歩とか歴史の発展とか科学的真理の存在など、20世紀には自明と思われていたことが、この世紀末には、説得力をほとんど喪失してしまった。
生産力の飛躍的増大という時代背景が、科学で説明できないものの存在や歴史を経ても変わらないものの大切さなどを、凡人には見えなくさせていたようだ。
この本の前半は、そうした20世紀的偏見への破綻宣告だ。
20世紀的思惟に代わって著者が定立しようとしている「里(ローカル)な思惟」は、大地に根ざし、自然とうまく折り合いをつけた暮らしの視座からものごとをとらえようとする考え方のようだ。
それは、自分が今まで接してきた思惟方式のなかで、自分の生活感覚に最もフィットしている。
しかし、20世紀的思惟が否定されたのち世界を覆ったのは、グローバリズムだった。
グローバリズムは、個々人の思惟にも多大な影響を与えるし、もちろん経済生活を支配する。
そして、労働を苦役に変える。
『経済学・哲学草稿』でマルクスがイメージした、人は労働の中で自己実現するという労働観は健全なものだったと思う。
彼の労働疎外論は今なお十分に共感できる。
だが、資本のあくどさは、マルクスの想像を絶していた。
労働者は自分が資本に売った時間のあいだ、奴隷になると彼は考えていたが、労働者は今やほぼ全人格的に資本の奴隷と化しつつある。
自己を省みるいとまさえ認めないほどに圧倒的なグローバリズムに対し、「里」という思想がどこまで有効か。
テロリズムは所詮、グローバリズムの手先にすぎない。
「里」という思想をさらに研ぎすました思想的な武器が必要な感じがする。