1201年秋に行われた後鳥羽院の熊野詣りに同行した藤原定家の『熊野御幸記』の記述をもとに、定家の道中を追体験させてくれる本。
つい先日、本書にも出てくる大雲取越えを歩いたのだが、鎌倉時代の中流貴族がこの山道を歩いたと思うと、歴史が身近に感じられる。
定家にとっての熊野行きは、あくまでも仕事の一環だった。
上の山行記でも書いたが、大雲取越えで雨に降られた定家は、「心中は夢の如し。いまだかくの如き事に遭わず」と記している。
山で雨に降られるのは面白くないものだ。
彼は、険阻といわれる大雲取越えを輿に乗って通ろうとした。
10月の下旬だから、寒いといっても、凍るほどではない。
自分で歩けば、体熱でずいぶんラクになるだろうに、歩く暮らしをしていなかった宮廷人には、それさえ思いつかなかったのか。
慣れぬ添乗員の仕事に精一杯で、感興も湧かなかったのだろう。
彼が雲取越えを詠んだ歌はない。
この旅で、若い後鳥羽院はすこぶる元気だったようだが、院や公卿を惹きつけた熊野の魅力とは何だったのかと思う。
今はほとんどスギ林に覆われた平凡なピークが連なっているが、かつては照葉樹・落葉樹の深い森だったと思われる。
しかし、そのようなところは熊野以外にも、たくさんあったはずだ。
没落する畿内政権の危機感が、浄土思想をリアリティあるものに感じさせた点が大きかったのだろうが、謀略と旧弊の渦巻く京都から海や山へ出る開放感も、後鳥羽を楽しませたのかも知れない。
熊野は中世〜近世を通して、現世で救われない人々が、救いを求めて熊野をめざした。
近世にはおそらく、現世でさほど不幸でない人々までが、利益を求めレジャーを兼ねて熊野に殺到したのではないかと思われる。
明治になって廃れた熊野への道は、「世界遺産」に指定されたことによって再び注目されているようだが、さすがに大雲取越えの道は、ひと気もなく静かだった。
観光の種になるのはやむを得ないが、亡者や妖怪ダルが生息しづらくなるような俗化だけは避けてほしいものだ。