多くの日本人と同じように、受身の医療を受け続けてきた。
これからも、あまり主体的にはなれそうにないが、この本などを読むとそれではいけないのかなと思う。
人間の各種器官をパーツと捉え、その不具合が病気だと考える西洋医学のやり方は合理的なように見えるが、どこか納得できない部分がある。
人間にはわかることとわからないことがある。
わからないことについては、総合的に考えたり、経験則に従うことによって間違いのない判断をすることができる。
人間の身体についても、わからないことが多い。
東洋医学には、必ずしも合理的でなくても納得できる説明があるような気がする。
本来なら総合的な学問であるにもかかわらず、諸科学は専門化・細分化の度を深めつつある。
そこで得られた知見を意味あるものにするには、総合化という作業があって始めて可能になるのだが、細分化された科学の分野はあたかも、意味不明の記号ないし、同じコトバを持つ人々にのみ参加可能なゲームと化している。
医学も同様で、とくに食事や生き方・暮らし方と不可分の関係にある。
西洋医学がなかった時代の日本において、庶民にとって病気は呪術の対象だった。
しかしその時代にも、東洋医学は存在した。
そこには膨大な経験則や知恵が存在していたはずだが、現代の一般人がそれらに触れる機会は多くない。
現代の日本では、医療機器メーカーや製薬会社などによる、一種の産業として医療が成り立っている。
医事行政は啓蒙と病者の救済が中心であるべきと思うのだが、現実には、医事産業を適度にコントロールすることにもっとも力を入れているかに見える。
この国では、病気の沙汰も金次第というのが現実だから、この先の人生の見通しも芳しくない身としては、できるだけ自分で自分の身体をケアしつつ、病まずに死ねるよう努力しなければならない。
そのためにはまず、まともなものを食べて、無理せず、身体を使ったまともな暮らしをすることが第一だろうな。