雑文集『貧困なる精神』の一巻なので、「日本百名山」に関する評論集ではない。
サブタイトルは「メダカ社会の共鳴現象」である。
『日本百名山』は名山のプロフィールを簡潔に、力強く紹介した書として、よい本である。
この本が書かれた時代と今とでは、山の様相もすっかり変わってしまっているが、今なお共感する部分も少なくない。
しかし、このリストの中には、今や名山とはいえなくなってしまった山も少なからず含まれている。
八幡平、乗鞍岳、赤城山などは頂稜ま近にまで自動車道路が開通してしまっているし、筑波山や木曽駒ヶ岳はロープウェーが山頂近くにまで架けられている。
安易に登ることができからつまらない山だというわけではない。
山にとって景観はとても重要で、景観の優れた山はとりもなおさずよい山である。
しかし、自動車道路やロープウェーは山の景観を著しく損なうものである。
また安易に登ることができることが悪だというのも、的外れだろう。
弱者が高山の雰囲気を感じることのできる場所があってもよいと思うから。
だが、そんなことを述べるのも、おそらく無意味だ。
どれを名山とするかなど、個人の主観の問題だから。
著者が問題にしているのは、名山の数を百と限定するのは無意味だという点である。
いかにももっともだ。
登山人口の多くを中高年が占めるようになり、国内における商業登山も盛んなようだ。
そういう中で、どこに登れぱいいかわからない人にとって、百というのは不可能でない数字である。
中高年は百名山にのみこだわって登っているわけではない。
自分もそうだが、多くの人は、ガイドブックを見て一般的だと書かれている山・コースを登っているのである。
だが、そのような山歩きには、創造性とか研究心・探求心などが入り込む余地がない。
里山にだって、知る人ぞ知る山やルートというものがある。
またアプローチの仕方を研究することによって、ガイドにないコースを工夫することもできる。
ヒマラヤ登山でなくても、里山登山にだって、その人なりのパイオニアワークがありえるのだ。
登るべき山・ルートを限定し、お仕着せ登山に埋没しない方がよい。
特定の山・コースにハイカーが集中することによって生じるもう一つの問題点は、オーバーユースである。
これは尾瀬にもっとも顕著な現象なのだが、北アルプスあたりも、程度の差こそあれ、似たようなものだ。
いい山はたくさんあると思う。
ちょっとヒントを言えば、標高2000メートル内外の山に、静かでいい山が多い気がしている。
雑文集なので、ほかにも共感した部分が多かった。
ところで、このシリーズは、表紙カバーに目次の一部がリストされているのだが、「『南アルプス市』と『中央アルプス市』の"民度"」という文章が、本文の中にない。
本の作りがちと粗雑すぎないか。