武州大宮郷から雁坂峠を越えて甲州に至る道が秩父往還である。
秩父往還にまつわる歴史をエッセイ風に記した本。
2007年夏、「秩父山地の歴史と文化」という原稿を書くのにたいへん参考になった。
秩父往還がいつ成立したのかは明らかでない。
雁坂越えのルートはおそらく、採集経済時代には成立していたと思われるが、関所や番所が設置され、権力が管理するようになったのは戦国時代以降だから、往還としての歴史はそのころからとなる。
本の副題に「武田家外伝」とあるように、雁坂越えのルートは、武田氏の支配下にあった。
秩父山地を越えねばならないこのルートが武田氏にとって重要だったのは、奥秩父には、金をはじめとする鉱産資源が豊富だったからである。
日本はかつて、鉱産資源を多く産していた。
小・中学生時代に習った地理の勉強でも、石炭の産出量が世界でも上位だったはずだ。
武力によってしのぎを削る戦国武将にとって、富国強兵政策は統治の基本だったから、農業生産力の拡大と鉱産資源の開発は至上課題だった。
武蔵を領国とした北条が関東平野の経営に力を注いでいた間に、甲斐の武田は奥秩父山域にくい込み、鉱山経営に怠りなかった。
戦略を異にしていたが故に、秩父地方における二つの大名支配が棲み分けることができたと見ることもできるのではないかと思う。
往還の要は、秩父側から見る限り、旧大滝村なかんずく栃本集落である。
江戸時代以降、武田の部将だった大村家が栃本を管理するに至った事情の詳細は、わかっていない。
江戸開幕後、街道管理の必要に迫られた幕府にとって、武田時代以来、旧大滝村一帯に影響力を持っていた郷士大村家の威光を利用するのがもっとも無難だったということだろうか。
股ノ沢(金山沢とも)千軒といわれるほどに殷賑を極めた鉱山労働者は、どこに行ってしまったのだろうか。
戦前戦後の奥秩父大伐採時代に川又集落ができたように、旧大滝村一帯に定住した人々も多かっただろう。
それが、奥地山村の形成の、一つのパターンなのかも知れない。
栃本に残る千軒地蔵は、ことによるとそのような時代の遺物なのかも知れない。
旧大滝村のような山村が成立するには、なにかの背景がありそうなものである。
文字に無縁な人々の歴史は、たちまちのうちに見えなくなってしまう。
そこに未来を生きる上で、大切な事実が隠されているのではないかと、いつも思ってしまう。