サブタイトルに「山林労働者の日記」とある。
紀州・熊野の山林労働者だった著者の労働日記。
内容は、1967年冬の地拵え時の記録、1978年春の植林時の記録、そして1963年夏の林道建設時の記録である。
山仕事は、腕力と足腰が強くなければつとまらない。
ここに登場する山林労働者の多くは、林道工事の現場をのぞけば、おおむね近郊在住の住人で、水田耕作その他の仕事にも従事している。
じつに技術と体力を駆使して生きてきた人々である。
高度成長までの日本人の人生とはおそらく、このような感じだったのではなかろうか。
人柄はむろん各人各様だが、仕事に関しては誰も皆ていねいで、仕事に対するプライドは高い。
2007年前後の学校教師が、自分の仕事がいかに真っ当かということより、教育委員会の命令にいかに忠実かに心を砕いている現実を見ると、日本人はずいぶん退化したものだと感心する。
樹木を育てるためには、それぞれの樹木に応じ正しい育て方が必要であり、まちがったやり方では仕事のすべてが無に帰してしまう。
人間の子どもを育てるのは樹木より難しいが、まちがったやり方ではうまくいかないばかりか、取り返しのつかないことも起こりうるのだが、責任を転嫁するのも簡単だ。
山で働く人々は、健脚かつ力持ちなだけでなく、何でもできるし何でも作る。
本書の時代にはすでに架線が使われるようになっていたとはいえ、山小屋には最低限の食・飲料と道具類しか上がってこない。
道具を手入れし、道具を駆使して小屋掛けその他、生活に必要なものは自分で作り、道を作って水を引き、壊れたところは自分たちで修理する。
これまた現代人が退化した部分である。
この本には、必ずしも地元の住人でない人々ももしばしば登場する。
渡りの山林労働者や、林道工事現場で働く在日韓国・朝鮮人労働者である。
山の現場には常に、よそから来た人々が混在していて、ある人は地元に定着し、ある人はさらにまたどこかへ渡っていったのだろう。
決して高賃金ではなかっただろうが、このころの山はまだ、人を吸収する力を持っていたのである。
著者の目を通して感じた印象だから絶対ではないが、工事現場の人たちは、植林の現場の人たちに比べて、手を抜きがちだったような感じがする。
育てる仕事には、手が抜けないのである。
「おのれの体をちぎって食うとる」労働の現場は苛酷だ。
できればそんなにきつくない方が望ましい。
しかし、体力勝負・腕力勝負の世界でプライドを持って働く人々が、リスペクトされない世界は正されるべきだ。
この時代に植えられた山は今やほとんど手入れもされず、荒廃したままである。
日本人はやはり退化している。