田中角栄氏をどう見るかという問題は将来、歴史学的な論点になるだろうと私は見ている。
自分自身では、保守とは対極の位置に身をおくという自覚を持っているが、角栄的なものを「金権腐敗」の一言で片づけようとするような発想には、怒りさえ感じる。
田中角栄氏は、新潟にだけいたのではない。
大都市以外の日本各地に、小さな田中角栄がいた。
田中角栄とは、歴史の必然として登場した、象徴的な人格なのである。
日本の近代は、地方は内国植民地であり収奪の対象だった。
地方から収奪されたカネやヒトや食糧や資源は、大都市(の一部)のインフラ整備・繁栄のために費消された。
大都市(の一部)を繁栄させることが経済効率を高め、経済的に欧米に追いつくことだと考えられたのだろう。
秩父事件敗北後の秩父は、大量の満州移民という形で地域の破綻を食い止めようとした。
新潟は、明治期すでに北海道へ大量の入植者を送り出している。
イギリス植民地時代のインドなどと同様、いつまでも収奪され続けていたのだから、経済的自立など永遠にできるわけがない。
そのような構造を見えにくくさせていたのは、寄生地主制とともに、国家という幻影だった。
戦後の新潟が、三宅正一をはじめとする社会党・革新勢力の強固な地盤となったのは、彼らが地主制や国家の幻影を否定し、農業者の誇りを鼓舞する政策を前面に出していたからに他ならない。
しかし、地方が都市の内国植民地であるという構造は、戦後になっても変わらなかった。
戦後すぐに代議士となり、保守本流の中で頭角をあらわしつつあった田中角栄氏は、集票基盤を山村・農村に据えた。
通産・建設などの省庁に独自のパイプを構築し、苦難にあえぐ地元山村・農村のインフラ整備のために、予算を持ってきた。
インフラのできている人口集中地に予算を投下するのではなく、山村・農村に予算を持ってくるというやり方は、近代日本100年の伝統的手法とは正反対である。
それは、虐げられてきた地方による、都市への正当な報復だった。
かくて田中角栄氏は、選挙区あるいは新潟県下で熱狂的な支持を受けるにいたった。
田中角栄氏が権力を振るうことが、選挙区民・県民の生存の保障だったからだ。
しかし、『日本列島改造論』は革命の書でなかった。
日本の都市は地方を喰うことによって成立する。
そうした構造を前提としなければ日本の経済は、グローバル化の時代を戦い抜くことはできない。
田中角栄氏に、「世界に冠たる経済成長など無意味だ」と断じるほどの見通しがあれば、まさに彼は革命児でありえたのではなかろうか。