新井佐次郎『秩父西谷老譚』

 秩父事件に関する著者の話を何度かうかがったことがある。
 演説口調とは対極の静かな語り口ながら、事件関連の同氏の著作にあるように、地を這うような調査が印象的だった。


 西谷(にしやつ)とは、埼玉県秩父地方の赤平川流域、おかしな合併以前の自治体で言うところの、吉田町・小鹿野町・両神村に含まれる一帯をさす。
 本書の舞台は必ずしも西谷地方に限られないが、小鹿野町の飯田地区、なかでも松坂集落が中心である。

 内容は、大正末生まれの著者が、明治を生きた先人たちから聞いた話である。
 これを読むと、明治時代の秩父西谷とはどのような世界だったのかが、生き生きと伝わってくる。

 このような奇譚・古譚が歴史学的にいかなる意味を持っているのかなどということは、とりあえず重要な問題ではない。
 まずは話を聞くこと、そして記録することが最優先だっただろう。
 著者は小説家だったが、本書は創作民話ではないと冒頭に断っておられる。

 秩父事件であれなんであれ、そこに生きた民を理解しなければ、深い理解に達することはできない。
 本書に集められた話の中にも、歴史として貴重な証言がたくさんある。
 だが、これらの古譚は発展史観を補う意味で貴重だと考えてはいけない。

 あたかも中世日本の絵巻物がそうだったように、多様な人間がそれぞれ随意の方向を向いて歩いたり走ったりしている様相を描き出すことを、この古譚集はめざしていると思う。

 他の村でこのような仕事がなされなかったのは残念だが、それだけにこの本は貴重な仕事だったと痛感する。

(1987,10 まつやま書房 刊 2007,2,3 読了)