老シナリオライターの自己との対話。
佐江衆一『黄落』は老人介護というテーマの重さを突きつける小説でしたが、こちらは、老いるとはどういうことなのかについて、老いる側から考えさせます。
生きる力のあるうちは生きたいと願うのは自然なことでしょう。
生きたいと願うことが自然なことであるなら、その願いは叶えられなければなりません。
自力で不足なら、家族の力を貸さねばならないし、家族の力が不足なら行政の力でそれを保障すべき。
それができないと、この世が鬼畜の世でないことの証明ができないことになってしまいます。
障害を抱えた息子とともに餓死した、東京の77歳の母の話が出てきます。
"自己責任"などという言葉を軽々しく口にする役人や政治家はすでに、畜生の道に堕ちています。
これも東京の話ですが、特養ホーム建設計画反対の理由が特養が来ると自宅の「資産価値が下がる」からだそうな。
そんな言葉を発した人がゾンビでないか、よく確かめた方がよいのではないか。
仏教的な諦念に立てば、あるがままの自分を受け入れ、従容として老い逝くことができるのかもしれませんが、人間は、そんな絵に描いたような悟りとは縁がのない、煩悩のかたまりです。
『楢山節考』に描かれている世界は、労働力を養う以上の生産力を持てなかった時代の話。
身体を張って人間が働けるのはほぼ50歳台半ばくらいですから、それをはるかに越えて生産に従事できなくなった人は、世の中から退隠すべきと思われていたのでしょう。
今は身体を張らなくても続けられる仕事が多い上、社会全体の経済力は空前の規模にまで高まっているのだから、生きる力のある人が生きることを保障するくらい、容易なはずです。
政権政党の党首選びが行われつつある今(2006年夏)ですが、候補者たちの話を聞いていると、この人たちには基本的なことが何もわかっていないのではないかと、絶望させられます。