教育は子ども自身のために行われるという理念がある程度有効だったのは、1980年代まででした。
1990年代以降、教育は国家のために行われるということが一層鮮明になり、子どもは国家の道具に過ぎないという思想が、堂々とまかり通るようになってきました。
子どもが国家の道具だということは、国民が国家の道具だということと同義です。
著者は、そのような主張に対し、明快なアンチテーゼを示しています。
国家の道具でありたくないのであれば、各自がそのような意志表示をすべきでしょう。
1960年前後から国家は、選別と服従を基調とする教育をめざしてきました。
現在の流れは、それがほぼ完成に近づいたことを示しています。
注目すべきは、ブルーカラー予備軍である非エリート層への学力保障の放棄を、国家が明言した点です。
そこは、1960〜70年代と大きく異なる点です。
規制緩和をはじめとする一連の改革によって、自己責任の名の下に生存権の保障が放棄され、農山村と都市の格差拡大が助長されてきました。
教育の分野ではエリート層と非エリート層の固定化が図られています。
従順さをことさら要求される非エリート層からドロップアウトする人々は、社会から排除されつつあります。
新自由主義とは、新封建制に他なりません。
新封建制を支えているのは、かつて自己を中流と認識していたであろう、非エリートの一部(下級官僚や教師・管理職サラリーマンなど)であろうと思われます。
これら小権力者たちは、いずれは自分の首を絞めるであろう差別・選別意識の伝道者の役割を果たしています(自分がそうであることを承知で述べています)。
日本社会は、近い将来、ドロップアウトした人々とニューカマー(外国人ブルーカラー)にとってさらに敵対的になると思われます。
社会変革への具体的な道筋を得られないと人間は、社会を憎悪するしかなくなります。
ニューヨークでは、ゼロ・トレランス(非寛容)政策が採られ、スラムの見た目の猥雑さは姿を消したそうです。
日本の各自治体におけるホームレス排除も、同様の理念に基づいているものと思われます。
そのような社会の行く末は、反抗と抑圧しか存在しない、殺伐としたものになるでしょう。
それは、日本に似つかわしいものとは思えません。