山林作業の合間に書かれた生活エッセイ。
これらの文章が書かれたのはおおむね1970年代。
舞台は紀伊半島南部の果無山脈です。
この本で見る限り、著者は、山林作業の経済や自然環境や、生活自体を記録することにさほど熱心ではないようです。
ここに描かれているのは、平板な表現で恐縮ですが、山林労働者の実存感覚といったものです。
著者らは、伐採・地拵え・植林・下刈りなど造林作業一式を山主から請け負っているのですが、経済的な記録でないため、森林組合の組織なのであろうということが窺われはするものの、山主と事業主体と現場労働者の関係は、今ひとつよく見えません。
一帯は、古くからの林業地帯のようです。
山林労働者の日当は、さほど低くはないとはいえ、不安定化のきざしがあることが本の終わりの方に記されています。
山林労働という仕事は、いかにも職人らしい仕事です。
架線を掛け、山小屋を造り、仕事のかたわら酒・博打・狩猟・釣りなどで無聊を慰めつつ、炊事などもこなします。
下刈りに刈り払い機を使わない時期なので、下刈り鎌の研ぎは一日数回にものぼるようです。
身体を酷使する割に、実入りが多いわけでもない。
登場人物の一人の「変な人生やのう」というつぶやきが、かれらの実存を象徴しています。
山林労働者は、山の風情から季節の移ろいを感じ、動物の生き死にに出会い、働くことの充実感にひたるのですが、都会ではきらびやかな電灯がともり、人々が消費にうつつを抜かしているのです。
消費にうつつを抜かす暮らしがどこまで真っ当であるか、よく考えればいろいろわかるのですが、世間のマジョリティは、生産する側でなく消費する側に回りたがっており、生産する側へのまなざしは、はなはだ冷たい。
かくて山林労働者の実存は、諦観し羨望し、きしみ音を立てるのでしょう。
その思いを、渋谷定輔の詩のように直截的にぶつけるのでなく、植物や動物や雨風や雪のようすを鋭く観察した記述から、あふれ返る著者の自意識が感じられて、仕方がありませんでした。