サブタイトルは「自然と人の出会いについて考える」とあります。
内容は、著者の知床における山行記、および1987年4月の林野庁による知床伐採強行に関するアンソロジー、そして、自然と人間との関係についての考察からなっています。
私は、いわゆる冬山には行かない低山ハイカーだし、だいたい北海道の山に登ったことが一度もありません。(^_^;)
しかし、北海道の自然は誰のものかについては、少し考えたことがあります。
まず第一に、北海道は、日本のものではない。領有権ということをいうなら、北海道は、千島・カラフトを含めて、先住民族たるアイヌのものです。
日本による北海道の領有化は合法的であったかもしれませんが、実際には江戸時代以来、領土と人民の簒奪といっていい経緯がありました。
同じように、「北方領土」を返せという要求は、合法的だとは思います(ほんとは全千島返還要求をするのがスジだと思う)が、アイヌが国家を樹立したあかつきには、北海道を含めてアイヌに返せという要求も正当化されるべきだと思います。
そうはいっても、北海道各地に住み着いて何代かを閲した日本人たちに、「内地」に戻ってもらうわけにはいかないでしょう。
日本人として、なんとかできそうなのは、宅地と耕地以外の土地、すなわち河川や山林を、感謝の気持ちをこめてアイヌに全面返還することくらいではないでしょうか。
著者は、知床を愛する日本人登山家です。私などには、考えもつかない冬の知床に、何度も登り、日本人と知床について考え続けています。
しかし、通うほどに、人間(日本人)に対する著者の評価は絶望的になります。
自然を破壊するのは人間である。それはつねに一方的であり、どんな場合でも人間の側の勝手な理屈から出ていることだ。結果、人間も自然も一蓮托生、共だおれになっていく。自然はあまりに悲しく、人間はこれほどおろかな生物になりさがっていることは、知床に来ると身にしみてわかる現実である。
著者はもはや人間、そして、人間の到達した近代文明を信用しないと断言しています。
今まで絶対の真理のように語られてきたヒューマニズムなどという思想自体も根底まで下りて疑ってみることだろう。それはヨーロッパ好みの近代文明が今日まで築き上げてきた美談にはちがいないが、その際、一度だって自然というものを正視したことはないのである。人間が人間のみをこよなく愛することを教えただけだったといっていい。けっきょく、こういうヒューマニズムの思想は自然を人間の下位におくという重大な誤りを犯してしかも気づかない。(略)徹底して人間のやることを信用しないやり方こそが地球のためにどんなによいかをキモに銘ずるべきだろう。このように述べる著者を真っ向から批判する自信は、じつは、ないのです。 しかし問題は、ヒューマニズム、さらには近代を否定することがどれだけ現実を変革する思想へと昇華し得るのか、だと思います。 近代を乗りこえる力を、どこから汲み取るか。
近代の否定からでしょうか。それとも近代そのものの中からでしょうか。
それ以前に、われわれ多くの日本人は、はたしてどれだけ近代人でありえているのでしょうか。
私は、近代をつくりだすために苦闘した人々の営為から、謙虚に学びたいと思っています。近代から学ばずして近代を否定するのは、ごう慢以外の何ものでもないと思うからです。
(ISBN4-7733-4468-7 C0095 P2200E 1995年8月 近代文藝社刊 1996,8読了)