地方で暮らしていると、山の未来に対しても、絶望的になりがちなのだが、必ずしも悲観的な要素ばかりというわけではない。
都会の人々は、たとえば政治に対してだって、自分たちの力でそのあり方を変えていくことができると考えているようだし、実際みんながそのように考えるなら、それは可能なのだ。
そして、里山や奥地の森林の現実に対しても、とても繊細な感覚を持ってくれている人が多いと思う。(そうでない人も絶対数としてはずいぶん多いが)
浜田さんのこの本には、森づくりの一歩を踏み出した、主にシロウトの人々が数多く登場する。
シロウトの人々が、プロから森づくりを教わり、技術を習得していく。
なんのために?
世はいよいよ世紀末の様相を呈しはじめた。
このまま行けば、21世紀の日本は、借金と有害物質にまみれて荒廃するだろう。
高度成長時代から始まった、地面に足をつけない生活がどこに行き着くか。
なんとはなしに、いやな予感が人々をとらえ始めている。
大地と対話しつつ生きる人生に対する渇望が、人々の中に生まれ始めているような気がする。
食べものをふくめ、あらゆる「もの」に対する想像力を麻痺させた暮らしを続けることは、さまざまな有害物質の危険性が指摘されている今、とても不安なはずだ。
大地から生まれた生きものとして、大地に根を張った暮らしが人間らしい暮らしなのではないかと考え、そのような暮らしがしたいと思う人々が増えてきたのかもしれない。
森づくりをめざす市民とは、おそらくそのような人々なのだろう。
市民が日本の森の将来を考え、技術を習得し、提言する。
そのことによって、一定のインパクトは確かにあるだろう。
ところで、いかなる森も、すべて地域の中に存在するし、地域の人々と生きてきた歴史を持っている。
次なる課題は、地域の中で、「市民」がいかにして市民権を得ていくか、ではないかと感じた。
(ISBN4-906640-15-X C0036 \1800E 1998,9 コモンズ刊 1999,2,1読了)