『山の民』同様、山国飛騨の農民のたたかいを描いた小説集です。
『山の民』が、維新期の梅村騒動を描いたものだったのに対して、こちらは江戸中期の大原騒動に取材して書かれています。
大原騒動の研究書を見たわけではないのですが、江戸時代中期の生産力発展の成果を収奪しようとした幕藩権力に対し、それを阻止しようとして飛騨の山の民が立ち上がったのが、この一揆だったということがわかります。
山の民の、平穏で豊かな暮らしへの衝動は、江戸時代以来、いやおそらくはそれ以前から、一貫しているのです。
彼らは、そのために工夫し、辛抱し、ときには爆発しながら、人生を重ねてきたのです。
それが日本列島に生きる人間の、もっとも大事な態度と知恵の集大成であったはずです。
大原代官は、年貢増徴という幕府の至上命令を忠実に実行しようとしたに過ぎません。
権力にとって、至高の価値は、権力そのものです。
木を伐ることが権力基盤を揺るがすと悟れば、伐木を禁じたりもします。
しかし、斜面に生きる人生から、権力が学ぶものはなにもありません。
飛騨人たちの、代官所や勘定奉行とのたたかいを読んでいると、今の西秩父における私たちの、埼玉県教育委員会とのたたかいがオーバーラップします。
代官所とて、願いを受け取らないことはなかったし、勘定奉行とて駕籠訴を受け取らないことはありませんでした。
しかし、埼玉県教委は、法に基づく請願を審議もせず野ざらしにし続けています。
大原騒動で新島に流罪となった甚兵衛の、「おれは、幕府のお慈悲など受けとうない」というせりふが、私には一番印象的でした。
(ISBN4-393-43503-6 C0093 P3914E 1989,1 春秋社刊 1998,11,28読了)