これは、新しい本ではありません。
はじめて読んだのも、10年前のことです。
いまから書くことは、ニフティサーブのFYAMAでも、発言する勇気がありませんでした。
でも、ここは私のホームページだから、いいたいことは、言おうと思います。
先日、安蘇山塊の核心部に位置する早春の井戸湿原を歩きました。
早朝からのヤブこぎでくたくたでしたが、横根山からの大展望で、いっきにむくわれたあと、誰もいない湿原に通されたひとすじの木道を、ぽくぽくと歩いていると、やや西に傾きはじめた太陽に照らされた湿原荘が、まだグレーの山はだに、浮かんで見えました。
ここはツツジ類やズミの灌木林なのですが、ところどころにウラジロモミの大木もまじる、自然度の高いところなのです。
モミの仲間の樹林帯特有のぬかるみのにおいが、ふとそよ風にのってやってき、木道を歩く自分の足音と響きあって、いきなり尾瀬のことが思い出されました。
尾瀬のことを考えると、涙腺がゆるみます。
『尾瀬は病んでいる』で著者は、尾瀬で金もうけをしようとする観光屋や土建屋をきびしく糾弾しています。
私はそれに同感でした。
それとともに、尾瀬のかかえる病弊の、もう一つの側面としての、オーバーユース(使いすぎ)の問題をも指摘しています。
一般のハイキングコースを人間がふつうに歩くだけでは、自然に致命的な打撃を与えることは、ほとんどないでしょう。
しかし、現在の尾瀬は、あきらかに使われすぎなのです。
尾瀬ヶ原に立てられた何軒もの山小屋の生活排水は、ほとんどが只見川の水源である、原の湿原に排水されています。
最盛期には、毎日数千人分もの生活排水が原に流されているのです。
しかも、尾瀬にかぎって、山小屋に登山者用の入浴施設がもうけられています。
これも原に流されます。
屎尿も現地で処理されています。
いくら尾瀬の自然が豊かでも、これではたまったものではないでしょう。
しかし、あえて言いたいのですが、日本で尾瀬ほどすばらしいところは、ありません。
尾瀬の自然を知らない日本人は、気の毒としか言いようがありません。
だからこそ、尾瀬の自然を、私たちの子孫に永遠に残さなければならない、と思うのです。
では、自分になにができるのか。
観光開発などの動きに対しては、反対運動もできるでしょう。
しかし、オーバーユースの問題に対しては、個人でできることは限られざるを得ません。
私が考えついたのは、「もう尾瀬には行かない」ということでした。
このことは、私だけのことですので、尾瀬の自然を享受したいと思う人は、どんどんお出かけいただきたいと思います。
そういうかたがたのためにこそ、私は尾瀬に行かないのですから。
でも、少しお考えいただきたいこともいくつかあります。
尾瀬の利権を持っている東京電力などには悪いのですが、なるべく原にある小屋では泊まらず、片品や戸倉に宿をとった方がよいのではないでしょうか。
それだけです。
この本は、オーバーユースのことばかり書いてあるのではありません。
尾瀬を守るための提言が、あちこちに見られます。まだ売っているのかどうか、確認していませんが、もし見かけたら、ご一読いただければと思います。
(ISBN4-272-33017-9 C0036 \1500E 1987,6大月書店刊 1987,7,25読了)