近代とは、中世(近世)より発展した社会であるという暗黙の了解があります。
その了解が、社会を科学として研究する学問体系の前提となっているといってもいいでしょう。
発展の中身については、人によりニュアンスの相違があります。
わたしは、近代とは「個の自覚」「個の尊厳の自覚」がもたらされた時代と考えています。
「個の自覚」「個の尊厳の自覚」が未熟だという場合、それは「封建遺制」というべきものだと思っていました。
著者は、日本の多くの学者は、学問と世間との間に引き裂かれた存在だと指摘しています。
世間とはかつて、社会的意識などと呼ばれていたのに近いカテゴリーです。
学問をするその人の生き方を規定していないような学問はじつに精彩のないものであるわけですが、日本の歴史学は長く、自分のあり方を問わない学問だったと著者は言われます。
埼玉県北の、とある自治体史編纂にかかわっていた当時の、苦い記憶がよみがえります。
わたしは、世間に淵源するとある政治的圧力により、一つの史実を消しました。
1950年代の国民的歴史学は、どのように総括されたのか。
わたしが学校で勉強していたころには、どちらかといえば、否定的な見方がされていたように思います。
1980年代の自由民権百年運動はどうか。
総括的な見方を提示してもらわないと、わたしには客観的な評価ができません。
自分自身はずっと、生活の中に沈んでいたからです。
著者は、世間の桎梏から個人を、また歴史を解放しなければならないと述べられます。
世間と闘うには、世間を知らねばなりません。
世間を知るとは生活を知るということであろうと思います。
そのためには、地に足をつけて生きるということがもっとも基本になるのでしょう。
今の学校は、世間を絶対的なものとして刷り込むことを、目的の一つとしているといってよいでしょう。
そういう現実とも、笑顔で闘う力量がほしいものです。
(ISBN4-00-430874-7 C0221 \700E 2004, 岩波新書 2004,10,6読了)