日本が当事者として参加したアメリカ−イラク戦争の中で、イラク側によって拘束されたのち解放され、帰還した青年の手記。
帯のコピーに「イラクに行ったこと、やっぱりいけなかったですか?」とあります。
これを読むと、自分の行動にそれほど自信がなかったのかと思われて、意外でした。
彼らの行動に対し、ネット上では、賛否双方の批評の波が、まるで洪水のようにうねっています。
この問題に関するわたしの考えは別のところに書きましたので、ここではこの本を通じて知りたかったことについてのみ書きます。
ひとつは、著者のイラク行きの動機はなんだったのかということ。
今井君は従来から、中東における劣化ウラン弾などの小型核兵器の使用に反対する活動を行っており、被害の現実を自分の目で確認したかったのだということを、この本の中で明確に述べています。
これは、とても大切なことだと思います。
例えば野口健氏などは、占領下のイラクに出かけるのはエベレストに登るのと等しくリスクを伴う行動であり、それが故に「自己責任を伴わねばならぬ」と述べています。
この論理を敷衍すれば、アメリカ占領下のイラクで自衛隊員や外交官など以外の日本人が危険に遭遇したとしても、日本国家に保護の責任は存在しないということになります。
野口氏にあっては、小型核兵器に苦しむ人々を救援するという行為は、ヒマラヤ登山という「究極の道楽」と同価値なのです。
J.クラカワーの『空へ』が、倒れている瀕死の登山者を横目で見ながら黙々と登高を続ける日本人パーティを描いていたのを想起させる発言です。
しかし、登山という自己責任の世界にあっても、生命が優先されるのが、人間の世界でしょう。
まして今井君たちが行っているのは、なんの罪もないにもかかわらず、非人道的な兵器の使用に苦しんでいる、主として子どもたちを救おうという行為なのです。
それは人間としての良心からする、当然の行為ではないかと思います。
「なにもお前がやらなくても・・・」と家族に言われたと彼は書いていますが、彼以外のだれにそれができるかといえば、結局、彼にしかできなかったことなのではないか。
政府は、イラクのことは自衛隊に任せろと言いたいかもしれませんが、小型核兵器を使ってイラク国民を殺傷し続けているアメリカの同盟軍に、非人道兵器の現実を直視できるわけがありません。
わたしは、今井君がなぜイラクに行こうとすることができたのかを、議論した方がよほど意味があると思います。
リスクと良心とを秤に掛けた末、良心を選択するという人間としての心性こそ、学ぶに値するでしょう。
知りたかったことのもう一つは、マスメディアなどによる「被拘束者バッシング」を彼がどう受け止めたのかということでした。
「など」の中身は、ネット上の掲示板やブログのたぐいの中での、轟々たる彼らへの非難です。
多数者集団が少数者を攻撃し排斥するという日本人の特性は、ネット社会の匿名性の陰に隠れて、ますますエスカレートし、陰湿化しています。
そんなものは、たかがインターネットとうっちゃってしまえばすむのでしょうが。
この点については、読後、多少の不満感が残りました。
日本人であることをやめることはできないのだから、著者たちには、この問題に対しても、分析的に対応していただきたいと思います。
これが日本の現実なのであり、いくら感情を露わにしたところで、匿名の攻撃者たちに新たな攻撃材料を提供することにしかならないのですから。
当然のこととはいえ、著者はまだ発展途上人です。
未熟さもあちこちで目につきます。
読み終えてもっとも強く感じたのは、若い著者に、今回の体験を出発点として、さらに大きく伸びてほしいという思いでした。
(ISBN4-06-212546-0 C0095 \1400E 2004,8 講談社刊 2004,9,16読了)