この本は、埼玉県秩父の山村に建設された合角(かっかく)ダムによって水没する地区のご老人からの聞き書きです。
古いことばで語られた内容を、語りのまま活字化してあるため、現に秩父に住む私にも、理解できないところも何ヶ所かありました。
それでも、聞き慣れたことばで語られた昔語りを読んでいると、ご老人たちの肉声を聞いているかのような錯覚におちいってしまいます。秩父以外に住む人たちが読むときとは、ずいぶんちがった感じがしているだろうと思います。
ダムに対するご老人たちの受け止め方は、当然ながら、さまざまです。
でも、長いこと、急斜面にへばりつくように生きてきた人ほど、土地に対する愛着が深いように思います。
人間にとって必要なのは、たましいの居場所なのではないかという気さえします。合角や日尾、女形、塚越という耕地(集落)で生きてきた人にとっては、それらの集落こそが、アイデンティティのありかなのだと思います。
多くのご老人が、ダムは人間のこころをこわしてしまうものだということを指摘しています。
建設省や県は、どうやってこころのケアができるか、考えたことがあるのでしょうか。彼らはたぶん、お金と権力があれば、なんでもできると思っているから、そんなことに責任を持つ必要性など、認めないでしょう。
しかし、ご老人たちのことばは、必ず記憶にとどめておこうと思います。
この本のもう一つの印象は、どんなにいやであってもいずれダムを受け入れざるを得ないとは、なんと悲しい現実かということでした。
本当は出たかぁねえよ。この土地で生まれ育った者んでなけりゃあ、今の気持ちはわからねえよ。それでも将来のことを考えてみりゃあ、ここへ残るより出た方がいいやいなあー。どうせここは過疎化しちゃうし、商いや農業じゃあ、食ってげねえかんなあ。もっともここじゃあ土地が狭くて、これからの農業じゃあ生活が成り立つはずがねえよ。
問題の本質は、ここにあるのです。今の日本では、山は、都会に対する、一方的な資源供給の役割しか持たされていません。いうなれば、山村は都会の内国植民地とでもいうべき立場におとしめられています。
木材や食糧供給能力にかげりが見えてきたので、こんどは電力や水道水を供給しろ、というわけです。
山村が都会と同等の立場に立てるようなシステムを回復すべきではないでしょうか。
日本人が電気や石油なしの生活に戻ることなしには、それは不可能のように思います。そういうことを含めて、考えてみる必要があると思います。
何千万でも何億でも金なんかちっとも欲しかあねえよ。静岡にゃあわしらが住む家が七、八年前に買ってあるっつうが、そんな所へ行ったって近所の者と付き合えるわけじゃあねえし、お茶一杯貰って飲めるわけじゃあなし、どうせ死にに行ぐだけだんべえ。ダム建設とは、むごいことです。
(ISBN4-7954-0126-8 C0036 P3605E 1997,1月 すずさわ書店刊 1997,1,21 読了)