佐高氏の魯迅論。
というより、魯迅を語りつつ、氏の批評の魂を語った本。
魯迅が、夜明けを迎えようとしていた20世紀はじめの中国における、強烈な批評精神であったことを、改めて知りました。
欧米や日本の横暴、中国国民の精神に染みついた事大主義、純朴なナショナリズム、等々が混沌として存在する現実の中で、現実を変える上で意味ある風刺や寸鉄などを表現し続けた作家から、何を学ぶか。
オモテにはかならず、ウラがある。
そして、ウラにも、さらにまたそのウラがあるのです。
ものごとの本質とは、らっきょうの皮をむくような執拗な考察によって、極めることができるものであって、既存の公式を現実に当てはめて解釈してみせるのは、単なることばの遊びにほかなりません。
例えば、人間観察においてもまたしかり。
もっとも安易な人間観察は、上下関係において人を見るということだと、著者は述べています。
例えば、教師対生徒などという場合が、代表的なケースです。
先哲の言をひくまでもなく、真理のみにオーソリティを認めるという立場に立たなければ、正しいもののひとかけらさえ、つかむことはできないでしょう。
文明が明らかに病み始めている今、生き物としての人間が、まっとうな生き物であり続けるすべを知っているのは誰か。
もちろん、「思想は学べない。ただ、つかみとることができるだけ」(本書)なのですが、ヒントは、いくらでも転がっています。
魯迅と佐高氏に、ニーチェのにおいを感じました。
それは、絶望の深さではありません。
激しい批評で苛酷な現実を腑分けしようようとする精神の強さにおいて、ニーチェとの共通項を感じたのでした。
(ISBN4-390-11630-4 C0195 \600E 1999,7 現代教養文庫 2003,6,11 読了)