両神村の大名山へ。
黒海土耕地の延命寺から登る。道なし。
アメダスで最高値35.5度だが、とんでもない暑さだった。
明治17年の9月2日、下小鹿野村の小菅萬吉は黒海土の寺に呼び出された。
そこには田代栄助・坂本宗作・恩田宇市らが居合わせ、萬吉は、借財を年賦にする件について栄助から聞かされたという。
この会議については、彼以外に供述している人がなく、そこで話し合われたとされる内容についても検討が必要だが、黒海土の寺といえば延命寺しかない。
写真は、草深い今日の延命寺。
両神村の大名山へ。
黒海土耕地の延命寺から登る。道なし。
アメダスで最高値35.5度だが、とんでもない暑さだった。
明治17年の9月2日、下小鹿野村の小菅萬吉は黒海土の寺に呼び出された。
そこには田代栄助・坂本宗作・恩田宇市らが居合わせ、萬吉は、借財を年賦にする件について栄助から聞かされたという。
この会議については、彼以外に供述している人がなく、そこで話し合われたとされる内容についても検討が必要だが、黒海土の寺といえば延命寺しかない。
写真は、草深い今日の延命寺。
終日、農作業。
頑張ったおかげではかどった。
きゅうり小苗の植えつけ。途中まで。
アスパラ小苗の植えつけ。アスパラはこれで終わり。
そろそろ赤くなってきたいちごに網掛け。
三年目のとちおとめなんだが、去年と比べて実がえらく小さい。
肥料不足の可能性もあるが、植えた苗がよくなかったのが原因かもしれない。
早くもランナーがでているので、よい苗をたくさん作る必要がある。
じゃがいもの土寄せ完了。
今年植えたのは新しく開墾した場所なので、木の根や石ころがすこぶる多く、今ひとつモチベーションが上がらない。
ネギの土寄せも終わり。
冬に食えるネギはとても重要。
家で、ビニールポットにエンサイの種まき。
西瓜の鉢上げ。
写真は、武蔵五日市駅近くにある東町観音堂。
ここは五日市観能学校あと。
お堂は小さいし、敷地も広くないのだが、かつてはもっと大きかったのだろう。
ここで教えていたのが、千葉卓三郎だった。
千葉卓三郎は嘉永五(1852)年、仙台藩士の上に生まれ、戊辰戦争にも出た。
維新後上京して各種学問・宗教(キリスト教)を学び、明治10(1877)年ごろから秋川界隈で小学校教員に就く。
明治13(1880)年に五日市を訪れて、ここ観能学校に勤め始めた。
ほぼ同じころ、五日市学芸講談会を作って、同年代の若い人々と社会・政治についての学習会を始めた。このころまだ30歳にならない。
タクロン・チーバーと自称した。
翌1881年に五日市憲法を起草。
1883年に結核のため没。
お金もない。
名声もない。
彼女もいない(かどうか実は不明)。
何も残さずに死んでいったかに見えた卓三郎が残した私擬憲法が偶然発見されたのは、昭和43(1968)年だった。
第45条 日本国民は各自の自由権利を達すべし。他より妨害すべからず。かつ、国法これを保護すべし。
人は各自自由であり、権利の主体である。それを何ものも妨害してはならない。かつ法律はそれら(の権利及び自由)を保護しなければならない。
これこそ、日本人民が到達した思想的金字塔というべき文言だろう。
山歩きと街歩きを兼ねて、五日市へ。
連休中とは言え休日でないので、人出は少なく、いい日和だった。
朝の広徳寺はとても爽やかだった。
朝から大麦の防鳥糸張りの準備をしていたら雨が降ってきたので、畑仕事はお昼まで。
三波川の妹ヶ谷不動の縁日(「復活祭」と称されるイベント)。
ここにお参りに来たのは三度目だが、人影を見たのは今度が初めてだ。
始まるころには参拝客もまずまず集まってきた。
お参りしたのち、受付で学業成就を祈念した護摩木を奉納した。
お坊さん数名による法要開始後しばしで失礼したが、その後も、神楽・ロックバンドの演奏・怪談・ひょっとこ隊の演舞などが行われた模様。
寺院なのだから法要がメインなのだろうが、それだけではお客さんは来ない。
江戸や明治の時代であれば、花火や地芝居が付け祭りだった。
しかし、寺社の祭礼における付け祭りがどのようなものであるべきかに、決まった答えがあるわけではない。
大事なのは、境内が賑わうことなのである。
秩父では、宗教に関連する行事に無縁では暮らせない。
しかし、夜祭のように超メジャーなお祭りは別として、地域で無数に行われている祭事は、担い手不足を主たる原因として、かなり危機的だ。
山村の民として、妹ヶ谷不動の健闘を祈りたい。
雨がやんだ午後から、各種用足し。
新しい書棚を作る必要がでてきたので、木材の購入。
近所にある製材所で、小売もしてくれるので、とても助かる。
自動車のタイヤ交換。
これはディーラーさんにやってもらう。
畑のそら豆の剪定続き。
そら豆の剪定は終わったので、里芋に取りかかりたい。
チェンソーの刃研ぎ。
写真は、富岡一ノ宮の光明院。
明治17年当時、光明院の住職は小林安兵衛という人物だった。
小林は茨城県人で自由党員。
弾圧に次ぐ弾圧を受けたこの時期の自由党の中には、実力行使による専制政府打倒以外に道はないと考える人々が生まれていた。
そのような路線を代表していたのが、茨城と群馬の自由党員たちだった。
明治17年3月13日に自由党の春季大会が開かれた。
落合寅市によれば、この大会期間中に党員有志会議が開かれ、武力行使を伴う行動を起こすことが確認されたという。
3月22日に光明院で行われた自由党の集会は、その方針を受けて開催されたはずである。
参加者は北甘楽郡だけでなく西上州一帯から集まったと思われ、この集会は、5月におきた群馬事件の伏線となった。
境内は静かで、きれいに掃き清められていた。
東京へでたついでに、国立博物館へ。
中尊寺金色堂の諸仏たちが出張しておいでだ。
2018年(栗駒山登山)以来久しぶりに、これらの諸仏と再会した。
日ごろ酷使しているわが眼に、よいものを見せてやれてよかった。
午前中は森林作業。
午後は農作業。
管理機はどうもダメそうだ。
たいへん絶望的な気分。
花粉大飛散。
スギ林から立ち昇る花粉は、山火事の煙のようだ。
写真は、妹ヶ谷不動の彫刻。
午前中の森林作業のあと、久々に畑仕事。
日陰はまだ積もっているが、雪はおおむね溶けた。
今年は暖冬のため、冬越し野菜が順調なのだが、えんどう豆が枯れ始めた。
潅水不足かと思えるので、潅水少々。
やや早いが、支柱のための杭打ち。
薪割り少々。
国峰城址に行く前、恩田集落の福巌寺にお参りした。
8月中に播種した大根・野沢菜などはすべて虫害で全滅した。
酷いものだ。
この次からは、本格的に農薬を使わねばならないかも。
ごまの収穫。
収穫のタイミングが今ひとつ読めないのだが、登熟の早いものから、刈り取って乾燥させる。
写真は、安曇野の松尾寺。
室町時代に建てられた古いお寺で、国指定重文。
なんと美しい建物だろう。
今日は出勤日だったのだが、仕事の途中で中抜けして、ほうれん草の種まき(ちぢみ)。
朝はずいぶん寒くて、ファンヒータを焚いた。
とはいえ、週半ばには夏がカムバックする予報になってる。
中山から下山後、甲府の善光寺にお礼参り。
甲府善光寺は二度目。
信玄は、甲府を甲信越武田王国の中心都市にしたかったんだと思うが、それは実現しなかった。
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