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寄居事件

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正樹院


 1923年の9月6日、関東一帯が未だ騒然とするなか、埼玉県寄居警察署は具学永さんという飴売りの青年を保護していた。
 流言に踊らされて殺気立った一般住民が、保護のため移送されていた朝鮮人を襲撃する事件が頻発していたからである。

 埼玉県北部では、9月4日に熊谷で数十人、本庄で86人、神保原で35人が殺害され、5日には妻沼で、朝鮮人ではないが秋田県出身者が虐殺されていた。
 寄居署でも、警察官の制止にもかかわらず、自警団員が署に乱入し、竹槍や鳶口などで具さんを殺害した。

 事件後、住民有志が正樹院墓地に、具さんの墓を建てた。
 一昨年から、寄居地域の有志団体(むくげの会)が、具さんの追悼会を行って、事実のさらなる解明と継承をはかっている。

 2023年、松野博一官房長官(当時)は「(虐殺に関する)記録が見当たらない」と述べ、あたかも虐殺が事実として疑わしいかのような言い方をしてみせた。
 これこそ、恥ずべき歴史修正の見本といえる。

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相撲四十八手


 矢尾商店は秩父市内の老舗酒造業者で、いまでも市内唯一の百貨店を頑張って経営しておられる。18世紀半ば以来、近江の日野から訪れて以来、300年近く、正直・誠実をモットーとして来たお店だ。秩父事件のときにも、事件参加者がお店を訪れているのだが、番頭さんがそのようすをていねいに記録している。以下は、営業日誌の意訳。

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 一一月二日昼過ぎに、暴徒が訪れた。二、三名の者が乱入してきて、「刀を貸せ」と言う。刀は持ってないので、ないと言ったら、「これだけの豪家でありながら刀の二本や三本持ってないわけがない」と言い張り、失礼にも土足のままで帳場へ上がり、あちこち探したが一本もないので、「どこかに隠したんだだろう。早く出さなきゃあとで困るぞ」と脅迫するので、困り果てて、「昨日警察署から貸してくれと言われたので、貸してしまった」と言うと、暴徒たちは刀に手をかけて、「それじゃ、当家は警察の味方をするんだな。ふざけた野郎だ。殺してやる」と脅迫するので、「いや、警察の味方というわけではない。警察から強いて貸してくれと言われたので、貸したまで」と答えると、「それじゃ、総理に報告して処分を決める」と言い、さらに「質草を見せろ」と言われた。

 やむなく蔵に案内し、刀を見せると、リーダーらしき一人が質物の刀のうち程度のよい四本を選び出した。すると蔵の周囲に集まっていたうち数名が、「自分にも一腰くれ」とねだってきたが、幹事らしき人品のよい者(井上伝蔵)が「刀のない者には、いずれ本部から渡すので、この四本はいずれ本部から改めて借用に来ます」と言うので、刀は帳場にしまっておいた。

 相馬義広という使者が来て、「当店にて昼食の兵糧を用意してほしい」と総理からの伝言をいんぎんに伝えてきたので、迷惑ではあったが、焼酎釜二釜、飯炊き釜一釜の炊き出しをした。

 午後一時過ぎ、近戸の柴岡熊吉と横瀬村苅米の千島周作が、帯刀して幹事格として訪れ、「このたび、世直しをして政治を改革するために、このように大勢の人民を集めた。そんなわけなので、当店には兵食の炊き出しをよろしくお願いしたい。さて、高利貸営業者のように不正をなす者の家でなければ、壊したり焼いたりすることは決してしない。また高利貸の家を焼いたとしても、その隣家にはいささかの損害も与えないので、安心してほしい。また不法なことを言ってきたり、乱暴するような者がいたら、役所に届けてくれれば、ただちに成敗する。そんなわけなので、こちらのお店では、安心して、平常通りに開店して、商業を十分にしてほしい」と丁重に言ってきた。他の役人たちも、同様のことを言ってきたので、あまり気が進まなかったが、店を開けて営業した。

 午後八時ごろ、幹事らしき二名が帳場へ来て、晩ごはんを求めたので、御膳を出してやったところ、幹事柴岡熊吉が通りかかり、これを見て、「両君にはわが党の規約をわきまえていないようだ。それにわらじを履いたままで座敷に上がり食事をするとは、はなはだ不都合だ」と説教したので、二名の者はコソコソと隅で食べて出ていった。

 午後九時過ぎに炊き出しがようやく終わり、一休みしていたところ、幹事から「本日はもはや兵食もよろしいので、当店では戸を閉じて、老人・子供は休ませてくだされ。戸外はわれわれが警護するのでご心配なく」と、何度も言ってきたので、午後一一時ころ家内の者と交代して就寝した。
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 この業務日誌に出てくる柴岡熊吉は、秩父市近戸町の人で、秩父困民党の会計副長。総理・田代栄助の最側近である。敗北後逮捕され、凄惨な拷問を受けて獄死した。熱して溶けた鉛を飲ませられたという口伝がある。墓石もなく、近戸にある小さな自然石が墓石の代わりだという。若かりしころは草相撲の力士で、かれが千手観音堂に奉納した相撲四十八手の天井絵は、今も鮮やかに残っている。

 老舗の番頭さんが書きとめておいてくれた、熊吉の張りきったようすが目に見えるようで、研究者としても、誇らしい。

千手観音堂

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千手観音堂


 秩父事件の研究会で、秩父市へ。
 まずまず充実した内容だった。

 会が始まる前に、また荒川村へ。
 久しぶりに船川の千手観音に立ち寄り。

 彫刻は超精細というわけではないが、物語性があって面白く、建物もお堂というより、神社に近い感じだ。
 お堂前に築かれた土俵だが、以前はこんなにしっかり作ってあったかどうか・・。
 こういう史跡はときどき訪れたい。

崇台山

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長学寺


 昼間は降らない予報だったので、西上州(群馬県安中市)の崇台山へ。
 関東平野の小突起なので好展望なのだが、今日は見えず。蒸し暑さMAXで、標高300メートルに満たない低山ながら、けっこう苦しかった。

 登山口と反対側に下山。
 山裾を回って駐車地に向かう途中、長学寺で無事下山のお礼参り。

 ご朱印帳二冊目がいっぱいになった。
 登山のあとのご朱印集めを始めたのは、2019年に阿武隈(福島県広野町)の五社山から下山後、願成寺(国宝・白水阿弥陀堂)を拝観したときからだ。
 証明することはできないんだけど、おれはご利益をっとも疑っていない。

徳蔵寺

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徳蔵寺大師堂


 終日、強い雨。
 明日からしばらく降らない予報だが、週末からまた雨予報。
 もう梅雨に入ったとみていい。

 鶏足山から下山後、近くの徳蔵寺へお礼参り。

 本堂にお参りしようとしていたら、ご住職が声をかけてくれて、ご朱印帳をお願いすると、手書きでていねいに書いてくださった。
 秩父から来たというと、札所の話になり、帰るときには、おせんべいなどいただいた。
 鶏足山に行ってよかった。

 写真は本堂でなく、大師堂。

上一不動堂

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上一不動堂


 ほぼ終日、小鹿野町の街歩き。

 一ヶ月前とほぼ同じコース。
 新発見多い。

 上一の不動堂は明治20年に常盤屋の当主加藤恒吉氏が新勝寺から勧請したものとのことだった。
 小さなお堂だが、施されている彫刻はタダモノでない。
 お金に糸目をつけなかった常吉氏が建てたものとあって、すごいものだ。

 街歩きの前と後に畑仕事。
 落花生予定地の耕うんと潅水。

不動堂2

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不動堂


 終日、農作業。

 ルバーブ小苗の植えつけ。途中まで。

 なす苗4本植えつけ。
 昼間は暑くなるが、明け方はまだ寒いので、アンドン防寒。
 日曜日は遅霜かもしれない。

 まくわ瓜と西瓜をポットに種まき。

 写真は、小鹿野町不動堂の彫刻。

不動堂

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不動堂


 霧雨模様なのを幸い、図書館へ調べ物。
 夕方まで、ヒラタケとなめこの種駒打ち。

 写真は、石不動のある不動堂。

薬王院

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薬王院山門


 麦味噌の仕込み。
 これで今年四度目。
 これだけ仕込んでおけば、ある程度間に合うだろう。

 じゃがいもの棚卸し。

 チェンソーを研いでから町へ。
 昨日、行われた鎮守の祈念祭の会計処理。

 午後は、稲穂山公園で山林作業。
 終わってから、畑で農作業。

 ルバーブの植え替え。
 じゃがいもの植えつけ。
 今日は北紫を植えた。

 帰宅後、再びチェンソーを研いで、仕事終わり。

 写真は、薬王院の山門。
 まぁまぁ朝が早かったので、そこそこすいていた。

狭山藩

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本願寺堺別院


 各種用足し。
 予定している研究報告を二本、夜なべで仕上げたので、眠い。

 今夜は雨予報なので、期待が高い。
 ただ、この低気圧は二つ玉なので、行ったあとは再び冬型で、寒気がひどそうだ。

 観光スポットではないのだが、堺市に本願寺堺別院というお寺がある。
 都会のど真ん中なので、案内図みたいなものがないと手も足も出ないのだが、スマホがあるので問題なくみつけることができた。

 1590年の小田原征伐で本家が崩壊し、鉢形城も落ちたのだが、北条氏は断絶したわけではなく、北条氏規(氏政の弟・氏邦の兄)や氏直(氏政の子で小田原城主)は生きながらえた。
 氏規の子孫は狭山に領地を与えられ、北条氏は一万一千石の外様大名として、江戸時代も存続した。  弱小大名ゆえ、城郭を構えることはできず、陣屋で領地を治めたが、幕末には財政が破綻し、維新直後に崩壊した。

 狭山藩陣屋の北表門が、このお寺の御成門として移築されている。
 北条氏関係の建築物で現存するのは、たぶんこれだけだ。

 お寺にも門にも、北条氏に関する説明は何もなく、扉の金具もとれかけていた。
 関東の覇者だった先祖が見れば、思うところも多かっただろう。

2025年9月

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