相撲四十八手

矢尾商店は秩父市内の老舗酒造業者で、いまでも市内唯一の百貨店を頑張って経営しておられる。18世紀半ば以来、近江の日野から訪れて以来、300年近く、正直・誠実をモットーとして来たお店だ。秩父事件のときにも、事件参加者がお店を訪れているのだが、番頭さんがそのようすをていねいに記録している。以下は、営業日誌の意訳。
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一一月二日昼過ぎに、暴徒が訪れた。二、三名の者が乱入してきて、「刀を貸せ」と言う。刀は持ってないので、ないと言ったら、「これだけの豪家でありながら刀の二本や三本持ってないわけがない」と言い張り、失礼にも土足のままで帳場へ上がり、あちこち探したが一本もないので、「どこかに隠したんだだろう。早く出さなきゃあとで困るぞ」と脅迫するので、困り果てて、「昨日警察署から貸してくれと言われたので、貸してしまった」と言うと、暴徒たちは刀に手をかけて、「それじゃ、当家は警察の味方をするんだな。ふざけた野郎だ。殺してやる」と脅迫するので、「いや、警察の味方というわけではない。警察から強いて貸してくれと言われたので、貸したまで」と答えると、「それじゃ、総理に報告して処分を決める」と言い、さらに「質草を見せろ」と言われた。
やむなく蔵に案内し、刀を見せると、リーダーらしき一人が質物の刀のうち程度のよい四本を選び出した。すると蔵の周囲に集まっていたうち数名が、「自分にも一腰くれ」とねだってきたが、幹事らしき人品のよい者(井上伝蔵)が「刀のない者には、いずれ本部から渡すので、この四本はいずれ本部から改めて借用に来ます」と言うので、刀は帳場にしまっておいた。
相馬義広という使者が来て、「当店にて昼食の兵糧を用意してほしい」と総理からの伝言をいんぎんに伝えてきたので、迷惑ではあったが、焼酎釜二釜、飯炊き釜一釜の炊き出しをした。
午後一時過ぎ、近戸の柴岡熊吉と横瀬村苅米の千島周作が、帯刀して幹事格として訪れ、「このたび、世直しをして政治を改革するために、このように大勢の人民を集めた。そんなわけなので、当店には兵食の炊き出しをよろしくお願いしたい。さて、高利貸営業者のように不正をなす者の家でなければ、壊したり焼いたりすることは決してしない。また高利貸の家を焼いたとしても、その隣家にはいささかの損害も与えないので、安心してほしい。また不法なことを言ってきたり、乱暴するような者がいたら、役所に届けてくれれば、ただちに成敗する。そんなわけなので、こちらのお店では、安心して、平常通りに開店して、商業を十分にしてほしい」と丁重に言ってきた。他の役人たちも、同様のことを言ってきたので、あまり気が進まなかったが、店を開けて営業した。
午後八時ごろ、幹事らしき二名が帳場へ来て、晩ごはんを求めたので、御膳を出してやったところ、幹事柴岡熊吉が通りかかり、これを見て、「両君にはわが党の規約をわきまえていないようだ。それにわらじを履いたままで座敷に上がり食事をするとは、はなはだ不都合だ」と説教したので、二名の者はコソコソと隅で食べて出ていった。
午後九時過ぎに炊き出しがようやく終わり、一休みしていたところ、幹事から「本日はもはや兵食もよろしいので、当店では戸を閉じて、老人・子供は休ませてくだされ。戸外はわれわれが警護するのでご心配なく」と、何度も言ってきたので、午後一一時ころ家内の者と交代して就寝した。
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この業務日誌に出てくる柴岡熊吉は、秩父市近戸町の人で、秩父困民党の会計副長。総理・田代栄助の最側近である。敗北後逮捕され、凄惨な拷問を受けて獄死した。熱して溶けた鉛を飲ませられたという口伝がある。墓石もなく、近戸にある小さな自然石が墓石の代わりだという。若かりしころは草相撲の力士で、かれが千手観音堂に奉納した相撲四十八手の天井絵は、今も鮮やかに残っている。
老舗の番頭さんが書きとめておいてくれた、熊吉の張りきったようすが目に見えるようで、研究者としても、誇らしい。
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