
六甲山系・摩耶山。
荒れた雑木林の山かと思ったが、頂稜に近づくと立派な照葉樹林だった。
天上寺が焼けたのは1976年とのことなので、見る気になれば見ることができたはずだ。
山門は昔のままだとのこと。

六甲山系・摩耶山。
荒れた雑木林の山かと思ったが、頂稜に近づくと立派な照葉樹林だった。
天上寺が焼けたのは1976年とのことなので、見る気になれば見ることができたはずだ。
山門は昔のままだとのこと。

1923年の9月6日、関東一帯が未だ騒然とするなか、埼玉県寄居警察署は具学永さんという飴売りの青年を保護していた。
流言に踊らされて殺気立った一般住民が、保護のため移送されていた朝鮮人を襲撃する事件が頻発していたからである。
埼玉県北部では、9月4日に熊谷で数十人、本庄で86人、神保原で35人が殺害され、5日には妻沼で、朝鮮人ではないが秋田県出身者が虐殺されていた。
寄居署でも、警察官の制止にもかかわらず、自警団員が署に乱入し、竹槍や鳶口などで具さんを殺害した。
事件後、住民有志が正樹院墓地に、具さんの墓を建てた。
一昨年から、寄居地域の有志団体(むくげの会)が、具さんの追悼会を行って、事実のさらなる解明と継承をはかっている。
2023年、松野博一官房長官(当時)は「(虐殺に関する)記録が見当たらない」と述べ、あたかも虐殺が事実として疑わしいかのような言い方をしてみせた。
これこそ、恥ずべき歴史修正の見本といえる。

秩父事件の研究会で、秩父市へ。
まずまず充実した内容だった。
会が始まる前に、また荒川村へ。
久しぶりに船川の千手観音に立ち寄り。
彫刻は超精細というわけではないが、物語性があって面白く、建物もお堂というより、神社に近い感じだ。
お堂前に築かれた土俵だが、以前はこんなにしっかり作ってあったかどうか・・。
こういう史跡はときどき訪れたい。

昼間は降らない予報だったので、西上州(群馬県安中市)の崇台山へ。
関東平野の小突起なので好展望なのだが、今日は見えず。蒸し暑さMAXで、標高300メートルに満たない低山ながら、けっこう苦しかった。
登山口と反対側に下山。
山裾を回って駐車地に向かう途中、長学寺で無事下山のお礼参り。
ご朱印帳二冊目がいっぱいになった。
登山のあとのご朱印集めを始めたのは、2019年に阿武隈(福島県広野町)の五社山から下山後、願成寺(国宝・白水阿弥陀堂)を拝観したときからだ。
証明することはできないんだけど、おれはご利益をっとも疑っていない。

終日、強い雨。
明日からしばらく降らない予報だが、週末からまた雨予報。
もう梅雨に入ったとみていい。
鶏足山から下山後、近くの徳蔵寺へお礼参り。
本堂にお参りしようとしていたら、ご住職が声をかけてくれて、ご朱印帳をお願いすると、手書きでていねいに書いてくださった。
秩父から来たというと、札所の話になり、帰るときには、おせんべいなどいただいた。
鶏足山に行ってよかった。
写真は本堂でなく、大師堂。

ほぼ終日、小鹿野町の街歩き。
一ヶ月前とほぼ同じコース。
新発見多い。
上一の不動堂は明治20年に常盤屋の当主加藤恒吉氏が新勝寺から勧請したものとのことだった。
小さなお堂だが、施されている彫刻はタダモノでない。
お金に糸目をつけなかった常吉氏が建てたものとあって、すごいものだ。
街歩きの前と後に畑仕事。
落花生予定地の耕うんと潅水。

終日、農作業。
ルバーブ小苗の植えつけ。途中まで。
なす苗4本植えつけ。
昼間は暑くなるが、明け方はまだ寒いので、アンドン防寒。
日曜日は遅霜かもしれない。
まくわ瓜と西瓜をポットに種まき。
写真は、小鹿野町不動堂の彫刻。

霧雨模様なのを幸い、図書館へ調べ物。
夕方まで、ヒラタケとなめこの種駒打ち。
写真は、石不動のある不動堂。

麦味噌の仕込み。
これで今年四度目。
これだけ仕込んでおけば、ある程度間に合うだろう。
じゃがいもの棚卸し。
チェンソーを研いでから町へ。
昨日、行われた鎮守の祈念祭の会計処理。
午後は、稲穂山公園で山林作業。
終わってから、畑で農作業。
ルバーブの植え替え。
じゃがいもの植えつけ。
今日は北紫を植えた。
帰宅後、再びチェンソーを研いで、仕事終わり。
写真は、薬王院の山門。
まぁまぁ朝が早かったので、そこそこすいていた。

各種用足し。
予定している研究報告を二本、夜なべで仕上げたので、眠い。
今夜は雨予報なので、期待が高い。
ただ、この低気圧は二つ玉なので、行ったあとは再び冬型で、寒気がひどそうだ。
観光スポットではないのだが、堺市に本願寺堺別院というお寺がある。
都会のど真ん中なので、案内図みたいなものがないと手も足も出ないのだが、スマホがあるので問題なくみつけることができた。
1590年の小田原征伐で本家が崩壊し、鉢形城も落ちたのだが、北条氏は断絶したわけではなく、北条氏規(氏政の弟・氏邦の兄)や氏直(氏政の子で小田原城主)は生きながらえた。
氏規の子孫は狭山に領地を与えられ、北条氏は一万一千石の外様大名として、江戸時代も存続した。 弱小大名ゆえ、城郭を構えることはできず、陣屋で領地を治めたが、幕末には財政が破綻し、維新直後に崩壊した。
狭山藩陣屋の北表門が、このお寺の御成門として移築されている。
北条氏関係の建築物で現存するのは、たぶんこれだけだ。
お寺にも門にも、北条氏に関する説明は何もなく、扉の金具もとれかけていた。
関東の覇者だった先祖が見れば、思うところも多かっただろう。
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