秩父事件の最近の記事

御座山

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御座山


 メイン大豆の赤大豆だが、今年は最初にまいた種が干天のため発芽せず、次にまいた種もやはり、干天のため発芽しなかった。
 大豆の種まき時期は6月下旬から7月上旬なので、ここまで来たらもう無理だと思われるのだが、来年の種くらいはとれるかもしれないので、この先数日の夕立に期待して、まき直し。

 午後から期待通り、スコールが来た。

 明治10年代に、北相木村の村の戸長・井出為吉らは大龍寺で学習会を開いていたという。
 学習会のテーマやテキストが何だったのか、どのような運営がなされていたのかなどは伝わっていないが、為吉宅に伝わるフランス革命史や法律書を見れば、彼らの関心がどこにあったかがうかがえる。
 明治初年は、知識に餓えた若者たちが集団で学ぶ時代だった。
 一つの典型が、五日市学芸講談会だった。

 すっかり晴れて、高台に建つ大龍寺の山門からは、御座山の勇姿が望まれた。
 為吉たちはいつもこの景色を見ていたのだなぁと思いつつ石段を下ったのだった。

諏訪神社

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自由民権の雄叫び


 朝から鎮守の草刈り。

 最高気温が出る午後(37度まで行った)は身体を休めて自宅で書き物。
 もっともエアコンがないので、自宅が快適なわけでもない。
 夕方から畑に出かけた。

 北相木村は南相木村の隣村で、永禄8(1565)年に相木村が南北に分かれたときに成立した。
 この村の自由党員、菊池貫平と井出為吉は、明治17年10月末、秩父郡三沢村の萩原勘次郎に招かれ、国会開設運動に参加するつもりで秩父困民党に飛び込んだ。

 秩父に来てみたら負債問題解決のための運動だと聞かされ、一旦は「それじゃ帰る」と言ったが思い直し、武装蜂起の当日には、貫平が参謀長、為吉が軍用金集め方という困民軍の最高幹部に就いた。
 為吉は富豪から軍用金を集めた際、領収書に「革命本部 印」と署名し、貫平は、困民軍本陣が総崩れになったあと、残存勢力を率いて群馬県から長野県へと転戦し、東馬流で壊滅するまで戦った。

 1984年10月28日に、貫平宅にほど近い、北相木村の諏訪神社に「自由民権の雄叫び」と題された立派な石碑が建立された。
 おぼろげな記憶だが、自分も、この碑の除幕式のすみっこで、話を聞いていた。
 数年前まで内閣官房長官を務められていた井出一太郎代議士が、静かに参列しておられたことが印象的だった。

 碑文には明治17年の村戸数250戸で秩父事件参加者約200人とある。
 現在の村総人口は700人を切っているが、広いレタス畑は、よく手入れされていた。

南相木村・不戦の像

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不戦の像


 南相木村ができたのは1565年。
 佐久地方が武田信玄の支配下に入ったころだから、450年ほどの歴史がある。
 江戸時代以前から存在している日本の自治体は少ないのではないか。
 明治・昭和・平成の町村合併でも独立を維持し続けた。

 補助金が欲しくてドタバタ合併して歴史と由緒ある自治体名を投げ捨てた日本中の市町村は、ここの爪の 煎じて飲めといいたいが、もう遅い。
 南相木村から小海駅へ向かう村境は、出征兵士を送った場所だという。台座の銘文を読む。

 過ぎし戦いの日 ここ別れの松の下で 征途につく若者たちが 万感を胸にいだいて 愛する家族や村人に別れを告げ その多くが帰らぬ人となった。
 戦後すでに四十年 往時を偲び この尊い犠牲を決して無にしてはならないと 平和への悲願をこめ 村民相はかって ここに「不戦の像」を建てる。
 昭和六十年九月二十三日 南相木村

 秩父困民軍は南相木村を通っていないのだが、戸数の大多数にあたる200名ほどが参加している。

延命寺

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延命寺


 両神村の大名山へ。
 黒海土耕地の延命寺から登る。道なし。
 アメダスで最高値35.5度だが、とんでもない暑さだった。

 明治17年の9月2日、下小鹿野村の小菅萬吉は黒海土の寺に呼び出された。
 そこには田代栄助・坂本宗作・恩田宇市らが居合わせ、萬吉は、借財を年賦にする件について栄助から聞かされたという。

 この会議については、彼以外に供述している人がなく、そこで話し合われたとされる内容についても検討が必要だが、黒海土の寺といえば延命寺しかない。
 写真は、草深い今日の延命寺。

秩父暴徒戦死者之墓

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秩父暴徒戦死者之墓


 苦しい思いをして草むしりすることになる前に、草を生やさなければいいということは、百も承知である。
 しかし野良仕事だけが人生というわけではないし、草むしり以外に為すべきこともあるので、雨と暑さについ弱気になると、畑が草原と化す。

 今日のアメダスは13時で36.1度。
 身体にはけっこうダメージがある。

 写真は、小海町の秩父暴徒戦死者の墓。
 秩父困民党は1884年10月31日の武装蜂起から10日目、11月9日の朝、ここで陸軍高崎鎮台兵と最後の銃撃戦を交わし、13名の戦死者を出して壊滅した。
 引き取り手のない遺体は、地元の方々によってここに埋葬された。

 この碑が建てられたのは1933年11月9日。困民党を秩父からここまで率いてきた北相木村・菊池貫平の子孫の手による。

 ミンミンゼミ初鳴き。

小梨峠

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小梨峠


 鮎川・三波川・神流川と、西上州の主たる谷は東西に走っている。だから南北の移動には、必ず峠越えが必要となる。自由党や秩父事件の組織活動も、官側の弾圧も、峠を舞台として展開された。
 下日野沢村の新井蒔蔵は村上泰治逮捕の際に抵抗したのち逃亡し、秩父事件当時捜査中だった。彼は北甘楽郡天引村に潜伏していたのだが、明治一七年一〇月三一日に、天引村の自由党員古舘市蔵とともに、石間村の加藤織平宅に出向き、下日野沢村小隊長となった。
 蒔蔵はどこをどう通ったかなど供述していないが、天引村から鮎川の谷(下日野村・上日野村)に出るには、小梨峠を通る以外にない。彼は小梨峠を越えて上日野村に下り、さらに温石峠を越えて三波川の妹ヶ谷不動に下っただろう。その先はいくつかのルートがあるから、特定はできない。
 官側も、連日、これらの峠を登下降した。藤岡警察署の永井弘巡査は、一一月一二日には小梨峠を越え、上日野村田本耕地に入り、困民党幹部一(新井多六郎)・事件参加者二七・博徒三の合計三一名を逮捕した。
 古い小梨峠の道型は今、ほとんど残っていないが、峠の馬頭観音は健在である。

萩原勘次郎

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萩原勘次郎


 萩原勘次郎は秩父郡三沢村の人で、秩父事件当時22歳で自由党員。三沢村小隊長。身長は五尺二寸四分とあるから、今なら小柄な方になる。「物色票」には顔は長く立派で、人品がよい、と記されている。
 裁判言渡書に記されていることが全て真実かはわからないが、それによれば、女部田梅吉に誘われて、明治17年10月に自由党に入党した。武装蜂起後には、八面六臂の活躍を見せる。石間村戸長役場で武器の徴発、捕虜(青木巡査・千葉技師)の監督などを担当したあと、旗揚げの際には小隊長として指揮旗を携えて進軍。その後望遠鏡を預かって、蓑山で警官・軍の見張りにあたった。軽懲役8年に処せられ、判決から約1年後に獄死。
 言渡書に記載されているのはおおむね以上だが、実は勘次郎はもっと重要な役割を果たしていた。信州北相木村・菊池恒之助の言渡書には、明治17年9月に萩原勘次郎が「剣道指南」のために北相木に招待され秩父困民党の状況を信州に伝えている。勘次郎はさらに同年10月20日、再び北相木村に赴いて、同村の自由党員たちに困民党への協力を要請している。
 秩父から北相木へは、わき目もふらずに歩いてまる二日かかる。勘次郎はよほどの足達者だったのだろう。人品よく立派な顔立ちで、剣道を教えるほどの腕前ですばしこい若者とあって、困民党幹部からも重宝されたのだろう。
 まだ若いのに父母はなく、妻子もおらず、獄死したから子孫もいない。同じ地番から萩原縫次郎という人が事件に参加して罰金刑ですんでいるから、縫次郎がこのお墓を建ててくれたのだろうか。

椋神社

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椋神社


 秋野菜予定地の耕うん続き。
 しかし暑さはやはり、危険な感じがする。

 晩生白菜の芽が出ないので、まき直し。

 写真は、椋神社。

作太郎地蔵

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作太郎地蔵


 朝から人間ドック。
 前夜からの断食とバリウム検査が面白くなかったのだが、終わってよかった。
 けっこう疲れたので、一日身体休め。

 写真は、下吉田村の作太郎地蔵。
 高野作太郎は、秩父事件当時30歳の木挽職。
 放火の罪を着せられて有期徒刑12年を宣告され、釧路集治監に送られてアトサヌプリ硫黄鉱山で外役させられた。
 16年間でのべ1370人ほどの囚人のうち、500人以上が死亡するという劣悪な環境のもとで彼も亡くなった。
 死んだ人はその場に埋められたが、その後、改葬の際に掘り起こしたところ、死者の足には鎖がついたままだったという。

 囚人労働を発案した井上毅は、大日本帝国憲法起草にも関わった伊藤博文の側近。
 囚人を使えば懲らしめにもなり、死んだら国費の節約になるから一石二鳥だ、ということを彼は、述べている。

 高野作太郎は、取り調べでずっと無実を主張しており、彼の犯行を証言した人物も、のちに証言の取り下げを願い出ている。

ササクレヒトヨタケ

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ササクレヒトヨタケ


 秩父事件の史跡めぐりを兼ねて旧下吉田村をウォーキング。
 実働3時間ほどだったが、サンダル履きで速歩きしたので、けっこう疲れた。

 彦久保次郎吉墓近くで、石段からササクレヒトヨタケが出ていた。

2024年8月

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