秩父事件の最近の記事

チヨが歩いた道4

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 チヨ・ダイ・ウラは警察の取り調べを受け、それぞれが署名捺印したその時の調書(の写し)は残っているので、彼女たちがどのようないきさつで、どのようなことをしたか、ある程度知ることができる。
 秩父事件に参加し、裁判にかけられた人々は、それぞれの罪の軽重に応じて軽い人で過料50銭、重い人で死刑の判決を言い渡された。「付和随行」に該当する人はおおむね過料だった。

 供述を読む限り、チヨとダイの行動は、犯罪の「教唆」もしくは「扇動」に該当するように思われる。ウラは困民党に無関係なので、もちろん無罪である。「教唆」の量刑は重懲役(9-11年)、「扇動」の量刑は軽懲役(6-8年)と決まっていたので、二人には、苛酷な刑罰が課されそうなものだが、二人の裁判言渡書が見つかっていない。無罪とは思えないのだが、その点についてはわからないとしか、言えない。

 やや気になるのは、犯罪とされた行動(困民党への参加を呼びかけたこと・武器を調達して困民軍に提供したこと等)をなしたことに対し、二人がどう思っているかを、取調官が追求している点である。他の参加者に対しては、動機に関する質問を徹底的に封印しているのと、対照的だ。
 以下、群馬県警・弥城友次郎警部とチヨの問答である。

弥城:(チヨの呼びかけに対し)高牛集落では、何人くらいが出てきたのか
チヨ:ふざけ半分に「困民党に出ろ」と呼びかけたら、5人ほどが出てきたので、トンダことをしたと思いました
弥城:「トンダことをした」のならなぜ、次の鳥羽集落でも同様に呼びかけたのか
チヨ:困民党とはいいことだと聞いていたので、鳥羽でも困民党加入を呼びかけました
弥城:おまえは今、「トンダことをした」と言ったばかりではないか
チヨ:トンダことをしたと思ったというのは間違い
弥城:困民党は武器を持って高利貸を襲ったことを知ってるだろう
チヨ:高利貸を打ち壊したことは知ってるけど、借りた金など返さなくてもいいわけだというので、悪いことじゃないと思います
弥城:困民党がいいことだと思って、ほうぼうでふれ歩いていたというわけか
チヨ:そのとおり

 ダイの取り調べを担当したのも、弥城警部だった。弥城はチヨとダイの行動の動機に興味があるらしく、ダイにも同じことを尋ねている。

弥城:このたびの困民党の騒ぎはよいことだと思うか、それとも悪いことだと思うか
ダイ:借金を10ヶ年賦にするとか40ヶ年賦にするとかいう話なので、そうなれば困ってる人は助かると思うけど・・別に何も考えてません
弥城:仮に困民が助かるにせよ、鉄砲その他の武器を持って手荒なことをすると知ってたのではないか。
ダイ:初めはそんなことをするとは思いませんでした。だけど鉄砲を借りろとか刀を借りろとかいうので、そんな大騒ぎをせずに穏やかに話し合えばいいんじゃないかと思ってました

 困民党への参加呼びかけを、やってみなとチヨにけしかけたのはダイだが、ダイは困民党なんか他人ごと的な言い方をしている。ここからダイという女性のしたたかさを感じる。

チヨが歩いた道3

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 チヨの家に泊まっていたダイに、遠田宇市が1日に、矢納村の人々に困民党に参加するよう呼びかけた上、三波川に行って鉄砲を借りてきてほしいと頼んできた。
 ダイがそれを承諾すると、チヨの母ゲンが「物騒な世の中だから一人では心細かろう」と言って、チヨをつけてくれた。そこへ畑仕事のために通りかかったウラにチヨが声をかけ、けっきょく3人で三波川へ出かけることになった。

 3人は、チヨ宅のある小松集落を発って風早峠へ登り、矢納村へ下っていったのだが、その途中、ダイが、「「困民党に加われ」と言って歩こう」と言ったので、チヨは「それは面白い」と思って、高牛集落で、「下吉田村の困民党へ出なければあとで大勢が来てまずいことになるから出ろ」「どうせ出なければならないのだから早く出ろ」などと、言って歩いた。すると高牛で5人ほど集まってき、次の鳥羽集落でも、3人ほどが出てきた。それらの人々に、ダイが、三波川まで鉄砲を借りに行ってほしいと頼んだが、その件については誰も引き受けてくれなかった。女だけで鉄砲を借りに行くわけにもいかないので、どうせ三波川まで行くなら、3人で不動さまへお参りすることにしたのだとダイは述べている。

 * この物語は、チヨ・ダイ・ウラの供述調書に基づいて書いているのだが、ダイの供述が完全に事実を語っているかについては疑問なしとしない。遠田宇市が三波川で鉄砲を借りてきてくれと言ったというが、なぜ三波川なのか、はっきりしない。三波川に鉄砲を貸してくれそうな人がいたからなのか・・。もしそうだとすれば、その人の名前をあげて、「◯◯さんのとこから鉄砲を借りてきてほしい」という頼み方をしたはずだ。

 三波川といってもたいへん広い。「鉄砲を貸してくれー」とかどなりながら谷を歩いたところで、誰も貸してくれるわけがない。ダイは、鉄砲を貸してくれそうな人(すなわち困民党シンパもしくは自由党員)の氏名をおそらく隠している。
 かといって、警官がもっと厳しく問いつめればよかったとは、まったく思わない。体験者の談によれば、秩父事件の取り調べは、まだ一言も訊かない前に、樫の棒でまず何発か殴り、その後おもむろに尋問に入るというやり方だった。小鹿野町というところ(おれが住んでいるところだが)、警察署の庭の木に被疑者を縄で吊るして取り調べを行ったという。三人のうら若き女性がどんな目に合わされたかは、想像したくない。

チヨが歩いた道2

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 朝、通院してからほぼ終日、農作業。

 いちごに潅水。
 2026年になってからまだ、2.5ミリしか降雨をみていない。
 ひどい渇水だ。

 畑に水道とかはないので、すべて雨水を利用しているのだが、秋までにためておいた雨水はほぼ、使い果たした。
 週末に雪が降る予報なので、それに期待する。

 以下は昨日の新井チヨに関する話の続き。

 新井チヨは当時、祖母のイカ(73)、母のゲン(45)、兄嫁のキク(24)と暮らしていた。兄の蒔蔵(21)は重木(隣集落)の村上泰治(17)が密偵殺害の疑いで逮捕されたとき、泰治を救おうとして抵抗し、以来、抗拒罪で指名手配されていたので、自宅にはおらず、群馬県天引村に潜伏していた。

 ダイは、群馬県上日野村の板割職人・小柏常次郎の妻だった。息子梅吉は前夫秋畑村田村藤吉の子で、9歳だった。常次郎は久しく留守だったが、10月31日に神奈川県の柏木太郎吉が自宅を訪れ、山で泊まり込みの仕事なので、毛布を持ってきてほしいという夫の伝言を伝えた。そこで11月1日に、城峯山で夫と待ち合わせて毛布を渡し、その日は新井蒔蔵宅に泊めてもらった。ダイはキクと親しかったので、チヨもまた、ダイと親しくするようになっていた。

 群馬県国峰村の遠田宇市が「どこからでもいいから刀を借りてきてくれないか」と言ってきた(時刻は不明)ので、明治17年11月1日(妹ヶ谷不動尊参りの前日)の午後15時に、ダイとチヨは二人で、重木集落の加藤重三郎(21)と卯八(姓不詳)の家からつごう3本の刀を借りてきた。刀は、チヨ宅の床の間においておいたら、誰かが下吉田村に持っていったらしい。

 この日、下吉田村では、秩父困民党の武装蜂起を夜にひかえ、午後にはすでに、警官隊と困民党軍との戦闘が始まっていた。困民軍側では、柏木太郎吉ほか1名が警官に斬られて死亡し、警官側にも死者が出ていた。チヨたちが借りてきた刀は、困民軍の武器となった。ダイの夫・常次郎は困民党の小荷駄方に任命され、困民軍のロジスティクスを担った。チヨの兄・蒔蔵は、潜伏先から立ち戻り、困民軍の下日野沢村小隊長に任じられた。秩父困民党は11月2日には大宮郷(現在の秩父市中心部)を制圧し、郡役所を占拠して革命本部をおいた。

チヨが歩いた道1

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チヨが歩いた道


 秩父郡下日野沢村の新井チヨ(19)は、頭痛持ちだった。彼女は、三波川妹ヶ谷の不動尊へ頭痛治癒の祈願をしてみたところ、霊験あらたかにて快癒したらしく、お礼参りに行こうと考え、群馬県上日野村の小柏ダイ(29)と自宅近所の黒沢ウラ(30)に声をかけ、明治17年11月2日に、三人連れ立って出かけた。

 三人連れが歩いた道ははっきりわかっているわけではないが、格別変わった道を行く必要はないから、当時もっとも一般的だったであろうルートを行っただろう。

 彼女たちはまず、チヨとウラの家がある小松集落を朝早く出立した。朝が早かったというのは想像だが、下日野沢から三波川の不動尊に行くには、健脚でもまる一日はかかるから、当然、朝は早くなければならない。チヨとウラの家がある小松集落から、彼女たちはまず、矢納村との境界にあたる風早峠に向かった。小松沢の細流に沿う昔の峠道は今、ブル道となっていて、当時の面影はない。風早峠から矢納村へ下っていくと、浜の谷集落・高牛集落・鳥羽集落を通る。ここまでは、チヨ本人が述べているから、間違いない。矢納村の先は今、神流湖によって道が寸断されているから、どこを通ったかやや不明だが、神山の南を巻いていくルートがもっともリーズナブルだろう。

 神山の南を下っていけばそこはもう、坂原村である。神流川を渡った先が、高瀬集落になる。不動尊へは、ここから法久集落を通り、石神峠へ登っていく。今は川沿いに国道462号線が走っているが、普通の歩行者はもっとも近くて楽に歩ける道を行く。明治30年測量の地形図には、高瀬からトラバースしながら露久保、さらに法久へ続く破線路が記されている。お参りが目的で、格別の足達者でもなかった若い三人の女性はもっとも一般的な道を行っただろうから、彼女たちが通ったのはこの道だろう。

 その日彼女たちは夕刻、三波川に着いたが、日の短い季節だったため、その日はダイの知人宅に泊めてもらい、不動尊へは翌朝お参りしたのち、チヨとウラは下日野沢村へ戻ることにした。ダイの家がある上日野村は、三波川から小柏峠を越えた日野の谷にある。ダイがまっすぐ帰宅するなら二人とはここで別れるべきなのだが、チヨとウラは、帰りの道がわからないと言う。そこでダイは、それじゃ送ってあげると言って、再び三人で石神峠へ登り返し、坂原村まで下ってきたところ、酒屋の前で警官により三人とも逮捕された。

 黒沢ウラはまったく無関係だったが、ダイとチヨは秩父困民党の関係者だった。その後の取り調べで、チヨは、驚くべき供述を始める・・。

 高瀬から露久保までの道は今も地形図に記載されているが、現状はほぼ廃道。しかし、部分的にははっきりした道型が残っていて、三人連れが歩いた当時をしのばせる、こんな石祠もある。露久保から法久への破線路は入口がまったく不明で今日は立ち入ることもできなかった。

破風山展望

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破風山展望


 終日、秩父事件の史跡めぐり。
 天気もよく、いい巡検だった。

 コロナワクチンを打った腕が痛かったが、発熱等はたぶんなかった。

 破風山11回目。

 足元に広がる展望から、大地の成り立ちと人々の暮らしを読む。
 堀切と太田との境の細い沢は奥が浅いが、まとまった雨が降れば、用水として使えたかもしれない。しかし、旱天ではどうにもならなそうだ。
 田んぼはできるが、苦労するだろう。

 太田の中央を貫通する伊古田川が、太田田んぼを潤したメインの水源だ。
 浸食は浅く、取水も困難でない。
 並行して流れる蒔田川と似ている。

 しかしこれだけ広大な田んぼに水を行き届かせるには全然足りない。
 戦後に、赤平川からポンプアップできるまでのコメ作りは、大変だっただろう。

 旧太田村を俯瞰すると、赤平川沿いに人家が立ち並ぶ。
 川は深く侵食されていて、河岸段丘はない。
 これを見ると、ここの河道は河岸段丘ができるより前、比較的早くに定まったものだろう。
 比高はほとんど存在しないが、赤平川べりは自然堤防で土砂が堆積し、地盤がしっかりしているのに対し、その背後、南側は傾斜のほとんどない後背湿地をなしている。
 この後背湿地が太田田んぼなのである。

 西に目を転じてみると、下吉田が見える。
 ここは赤平川と吉田川の合流点にあたる小盆地だが、いずれの川も流路は曲がりくねり、また浸食は浅い。

 これを見ると、河道が定まり侵食が進む以前に文明が訪れ、氾濫原の中に市街地ができてしまったことが想像される。
 さまざまなことが観察できて、学ぶこと多き山行きだった。

 自然堤防・河岸段丘・氾濫原・後背湿地などは、地理の教科書に出てくる基本用語なんだが、この山に立つと、それがひと目で見学できちゃうんだから、楽しい。

人新世という年代層序

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 近著(『秩父事件ノート』)について、藪の高橋さんという方から、「著者にお願い。この底本になったレポートや寄稿文を、全部ガラガラポンした新しい書下ろしを上梓して欲しい。題名は「イワナの目に写った秩父事件」なんてどうかな?」というコメントを、8月11日にいただいた。

 そのことについてずっと考えてきたのだが、友寄英隆『「人新世」と唯物史観』という資本論研究書を読んでいくらか、考えがまとまってきた。

 「人新世」という用語は、第四紀・完新世の次の年代層序として提起された。
 2023年 に国際地質科学連合・人新世作業部会により「人新世」の設定に関する提案が行われたのだが、同連合の第四紀層序小委員会は2024年に、その提案を否決した。
 したがって、この用語は、未だ国際的・学問的に認知されていない。

 しかし大地(土壌)と大気と水(海水と淡水)がドラスティックに変貌し、惑星全体が変質しつつある現状を、第四間氷期開始当時と同じ環境であるというには、無理があるのではなかろうか。
 自分の議論の範囲内で言うなら、日本列島におけるヤマメ・イワナの生息条件が失われるか否かの分岐点に今、立っているということである。
 本州島の殆どからイワナが姿を消し、北海道島のイワナが陸封される。
 それを悪夢と言わずして、何と言うべきか・・。

 戦前・戦後の歴史学は、20世紀の地球環境があたかも永遠に持続するということを前提として、議論を組み立ててきた。
 前提が存在しなくなるかもしれないのに、陽炎のような前提にすがりついて議論を組み立てたところで、なんの意味があろう。
 歴史は、歴史オタクの慰みものでなく、それで食ってる大学教授らの単なる飯の種であっていいのか。

 いや、だめだろう。
 そんな歴史など、犬に食われてしまえばいい。
 学生時代に、信頼し尊敬する先生や先輩から、歴史は学ぶ意味のある学問だと教わった。
 きっとそうなんだと思って、今まで歴史を学び続けてきた。

 学問の歴史に学びつつ、学ぶ意味ある研究を、石ころ畑を耕しながら、続けていきたい。

相撲四十八手

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相撲四十八手


 矢尾商店は秩父市内の老舗酒造業者で、いまでも市内唯一の百貨店を頑張って経営しておられる。18世紀半ば以来、近江の日野から訪れて以来、300年近く、正直・誠実をモットーとして来たお店だ。秩父事件のときにも、事件参加者がお店を訪れているのだが、番頭さんがそのようすをていねいに記録している。以下は、営業日誌の意訳。

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 一一月二日昼過ぎに、暴徒が訪れた。二、三名の者が乱入してきて、「刀を貸せ」と言う。刀は持ってないので、ないと言ったら、「これだけの豪家でありながら刀の二本や三本持ってないわけがない」と言い張り、失礼にも土足のままで帳場へ上がり、あちこち探したが一本もないので、「どこかに隠したんだだろう。早く出さなきゃあとで困るぞ」と脅迫するので、困り果てて、「昨日警察署から貸してくれと言われたので、貸してしまった」と言うと、暴徒たちは刀に手をかけて、「それじゃ、当家は警察の味方をするんだな。ふざけた野郎だ。殺してやる」と脅迫するので、「いや、警察の味方というわけではない。警察から強いて貸してくれと言われたので、貸したまで」と答えると、「それじゃ、総理に報告して処分を決める」と言い、さらに「質草を見せろ」と言われた。

 やむなく蔵に案内し、刀を見せると、リーダーらしき一人が質物の刀のうち程度のよい四本を選び出した。すると蔵の周囲に集まっていたうち数名が、「自分にも一腰くれ」とねだってきたが、幹事らしき人品のよい者(井上伝蔵)が「刀のない者には、いずれ本部から渡すので、この四本はいずれ本部から改めて借用に来ます」と言うので、刀は帳場にしまっておいた。

 相馬義広という使者が来て、「当店にて昼食の兵糧を用意してほしい」と総理からの伝言をいんぎんに伝えてきたので、迷惑ではあったが、焼酎釜二釜、飯炊き釜一釜の炊き出しをした。

 午後一時過ぎ、近戸の柴岡熊吉と横瀬村苅米の千島周作が、帯刀して幹事格として訪れ、「このたび、世直しをして政治を改革するために、このように大勢の人民を集めた。そんなわけなので、当店には兵食の炊き出しをよろしくお願いしたい。さて、高利貸営業者のように不正をなす者の家でなければ、壊したり焼いたりすることは決してしない。また高利貸の家を焼いたとしても、その隣家にはいささかの損害も与えないので、安心してほしい。また不法なことを言ってきたり、乱暴するような者がいたら、役所に届けてくれれば、ただちに成敗する。そんなわけなので、こちらのお店では、安心して、平常通りに開店して、商業を十分にしてほしい」と丁重に言ってきた。他の役人たちも、同様のことを言ってきたので、あまり気が進まなかったが、店を開けて営業した。

 午後八時ごろ、幹事らしき二名が帳場へ来て、晩ごはんを求めたので、御膳を出してやったところ、幹事柴岡熊吉が通りかかり、これを見て、「両君にはわが党の規約をわきまえていないようだ。それにわらじを履いたままで座敷に上がり食事をするとは、はなはだ不都合だ」と説教したので、二名の者はコソコソと隅で食べて出ていった。

 午後九時過ぎに炊き出しがようやく終わり、一休みしていたところ、幹事から「本日はもはや兵食もよろしいので、当店では戸を閉じて、老人・子供は休ませてくだされ。戸外はわれわれが警護するのでご心配なく」と、何度も言ってきたので、午後一一時ころ家内の者と交代して就寝した。
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 この業務日誌に出てくる柴岡熊吉は、秩父市近戸町の人で、秩父困民党の会計副長。総理・田代栄助の最側近である。敗北後逮捕され、凄惨な拷問を受けて獄死した。熱して溶けた鉛を飲ませられたという口伝がある。墓石もなく、近戸にある小さな自然石が墓石の代わりだという。若かりしころは草相撲の力士で、かれが千手観音堂に奉納した相撲四十八手の天井絵は、今も鮮やかに残っている。

 老舗の番頭さんが書きとめておいてくれた、熊吉の張りきったようすが目に見えるようで、研究者としても、誇らしい。

『秩父事件ノート』

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『秩父事件ノート』


 午前午後と、秩父事件関係の雑務。

 大角豆摘みの続き。
 大角豆こなしの続き。

 昨夜夕立予報だったのだが、空振りだった模様。
 畑がカラカラなので、潅水。

 『秩父事件ノート』発刊。

西ノ入村

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西ノ入村


 寄居町・むくげの会主催の史跡めぐりに参加。
 主として、旧・西ノ入村を案内していただいた。

 西ノ入村をていねいに歩いたのは初めてだった。
 写真は、新井周三郎が幼少期に手習いを学んだという明善寺から見た、新緑の里山。
 植生は変わっているかもしれないけど、新井周三郎は、こんな景色を見て育ったのだろう。

 帰秩後、畑で小苗たちに潅水。

城峯神社

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城峯神社


 明治17年10月31日の夜0時ごろ、陸軍の測量師・吉田耕作が、秩父郡矢納村の城峯神社で眠りについていたところ、同神社の小使いが狼狽して駆け込んできた。

 続いて覆面の者ら数名が日本刀や火縄銃で武装のまま寝所に乱入し、耕作に向かって、「自分たちは自由党員である。今夜は、先生をご招待するためやってきた」と述べた。
 「なぜ自分を招待するのか、理由を言え」と返答すると、その者は「自分は先生を下吉田村まで案内せよという命令を受けただけなので、ともかく来てもらいたい。断るならばただではおかない」と、武器を突きつけて脅迫するので、神官及び測量作業員ともども神社を出立したのは、午前3時だった。

 一行はその後、城峰の山腹を下り、矢納村の間道を通って古峠に出たという。
 耕作によれば古峠とは、矢納村と上日野沢村の境というから、今の奈良尾峠か石間峠のどちらかである可能性が高い。
 峠についたころにようやく周囲が明けてきたというから、朝の6時前くらいだ。

 作業員は無関係と思われたので、二人の作業員のうち、伊藤を解放させ、しばらく行くと門平に着いた。
 奈良尾峠を越えると奈良尾耕地に行ってしまうので、古峠は石間峠のことのように思われる。
 いったん解放された伊藤だが、古峠手前で再び拘束されてしまった。

 20名ほどの暴徒に護衛されて、阿熊村の新井駒吉宅に着くと、5.60名ほどが列をなしており、座敷に通されると幹部が評議中で、机上には書類がおかれていた。

 年配の幹部らしき暴徒から、「昨晩は大勢でご無礼申し上げ、申し訳なかった。今、人民が地方税や負債のために苦しんでおり、干戈に訴えるべきでないと説得してきたが、結果的にこのような暴動を起こさざるを得なくなった。信州・甲州にも伝令を送ってあり、味方もおいおい増えるだろう。まずは秩父郡一円を平均し、援軍の来着を待って埼玉県と戦い、コトなる日には純然たる立憲政体を樹立しようと考えているので、自分たちに助力してほしい」というようなことを、太閤秀吉を譬えにひいたり、西郷隆盛の事績を語ったり、国民のために一命を投げうつのが報国の義だなどと言って説得されたが、きっぱり断ったと、耕作は述べている。

 その後、秩父困民党は下吉田村で警官隊と白兵戦を戦い、困民党・警官隊双方に死傷者が出る。
 幹部暴徒から、「状況が変わったので、お引き取りいただいてけっこう」と言われたので、作業員とともに城峯神社へ戻った、と耕作は復命している。

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