秩父事件の最近の記事

人新世という年代層序

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 近著(『秩父事件ノート』)について、藪の高橋さんという方から、「著者にお願い。この底本になったレポートや寄稿文を、全部ガラガラポンした新しい書下ろしを上梓して欲しい。題名は「イワナの目に写った秩父事件」なんてどうかな?」というコメントを、8月11日にいただいた。

 そのことについてずっと考えてきたのだが、友寄英隆『「人新世」と唯物史観』という資本論研究書を読んでいくらか、考えがまとまってきた。

 「人新世」という用語は、第四紀・完新世の次の年代層序として提起された。
 2023年 に国際地質科学連合・人新世作業部会により「人新世」の設定に関する提案が行われたのだが、同連合の第四紀層序小委員会は2024年に、その提案を否決した。
 したがって、この用語は、未だ国際的・学問的に認知されていない。

 しかし大地(土壌)と大気と水(海水と淡水)がドラスティックに変貌し、惑星全体が変質しつつある現状を、第四間氷期開始当時と同じ環境であるというには、無理があるのではなかろうか。
 自分の議論の範囲内で言うなら、日本列島におけるヤマメ・イワナの生息条件が失われるか否かの分岐点に今、立っているということである。
 本州島の殆どからイワナが姿を消し、北海道島のイワナが陸封される。
 それを悪夢と言わずして、何と言うべきか・・。

 戦前・戦後の歴史学は、20世紀の地球環境があたかも永遠に持続するということを前提として、議論を組み立ててきた。
 前提が存在しなくなるかもしれないのに、陽炎のような前提にすがりついて議論を組み立てたところで、なんの意味があろう。
 歴史は、歴史オタクの慰みものでなく、それで食ってる大学教授らの単なる飯の種であっていいのか。

 いや、だめだろう。
 そんな歴史など、犬に食われてしまえばいい。
 学生時代に、信頼し尊敬する先生や先輩から、歴史は学ぶ意味のある学問だと教わった。
 きっとそうなんだと思って、今まで歴史を学び続けてきた。

 学問の歴史に学びつつ、学ぶ意味ある研究を、石ころ畑を耕しながら、続けていきたい。

相撲四十八手

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相撲四十八手


 矢尾商店は秩父市内の老舗酒造業者で、いまでも市内唯一の百貨店を頑張って経営しておられる。18世紀半ば以来、近江の日野から訪れて以来、300年近く、正直・誠実をモットーとして来たお店だ。秩父事件のときにも、事件参加者がお店を訪れているのだが、番頭さんがそのようすをていねいに記録している。以下は、営業日誌の意訳。

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 一一月二日昼過ぎに、暴徒が訪れた。二、三名の者が乱入してきて、「刀を貸せ」と言う。刀は持ってないので、ないと言ったら、「これだけの豪家でありながら刀の二本や三本持ってないわけがない」と言い張り、失礼にも土足のままで帳場へ上がり、あちこち探したが一本もないので、「どこかに隠したんだだろう。早く出さなきゃあとで困るぞ」と脅迫するので、困り果てて、「昨日警察署から貸してくれと言われたので、貸してしまった」と言うと、暴徒たちは刀に手をかけて、「それじゃ、当家は警察の味方をするんだな。ふざけた野郎だ。殺してやる」と脅迫するので、「いや、警察の味方というわけではない。警察から強いて貸してくれと言われたので、貸したまで」と答えると、「それじゃ、総理に報告して処分を決める」と言い、さらに「質草を見せろ」と言われた。

 やむなく蔵に案内し、刀を見せると、リーダーらしき一人が質物の刀のうち程度のよい四本を選び出した。すると蔵の周囲に集まっていたうち数名が、「自分にも一腰くれ」とねだってきたが、幹事らしき人品のよい者(井上伝蔵)が「刀のない者には、いずれ本部から渡すので、この四本はいずれ本部から改めて借用に来ます」と言うので、刀は帳場にしまっておいた。

 相馬義広という使者が来て、「当店にて昼食の兵糧を用意してほしい」と総理からの伝言をいんぎんに伝えてきたので、迷惑ではあったが、焼酎釜二釜、飯炊き釜一釜の炊き出しをした。

 午後一時過ぎ、近戸の柴岡熊吉と横瀬村苅米の千島周作が、帯刀して幹事格として訪れ、「このたび、世直しをして政治を改革するために、このように大勢の人民を集めた。そんなわけなので、当店には兵食の炊き出しをよろしくお願いしたい。さて、高利貸営業者のように不正をなす者の家でなければ、壊したり焼いたりすることは決してしない。また高利貸の家を焼いたとしても、その隣家にはいささかの損害も与えないので、安心してほしい。また不法なことを言ってきたり、乱暴するような者がいたら、役所に届けてくれれば、ただちに成敗する。そんなわけなので、こちらのお店では、安心して、平常通りに開店して、商業を十分にしてほしい」と丁重に言ってきた。他の役人たちも、同様のことを言ってきたので、あまり気が進まなかったが、店を開けて営業した。

 午後八時ごろ、幹事らしき二名が帳場へ来て、晩ごはんを求めたので、御膳を出してやったところ、幹事柴岡熊吉が通りかかり、これを見て、「両君にはわが党の規約をわきまえていないようだ。それにわらじを履いたままで座敷に上がり食事をするとは、はなはだ不都合だ」と説教したので、二名の者はコソコソと隅で食べて出ていった。

 午後九時過ぎに炊き出しがようやく終わり、一休みしていたところ、幹事から「本日はもはや兵食もよろしいので、当店では戸を閉じて、老人・子供は休ませてくだされ。戸外はわれわれが警護するのでご心配なく」と、何度も言ってきたので、午後一一時ころ家内の者と交代して就寝した。
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 この業務日誌に出てくる柴岡熊吉は、秩父市近戸町の人で、秩父困民党の会計副長。総理・田代栄助の最側近である。敗北後逮捕され、凄惨な拷問を受けて獄死した。熱して溶けた鉛を飲ませられたという口伝がある。墓石もなく、近戸にある小さな自然石が墓石の代わりだという。若かりしころは草相撲の力士で、かれが千手観音堂に奉納した相撲四十八手の天井絵は、今も鮮やかに残っている。

 老舗の番頭さんが書きとめておいてくれた、熊吉の張りきったようすが目に見えるようで、研究者としても、誇らしい。

『秩父事件ノート』

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『秩父事件ノート』


 午前午後と、秩父事件関係の雑務。

 大角豆摘みの続き。
 大角豆こなしの続き。

 昨夜夕立予報だったのだが、空振りだった模様。
 畑がカラカラなので、潅水。

 『秩父事件ノート』発刊。

西ノ入村

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西ノ入村


 寄居町・むくげの会主催の史跡めぐりに参加。
 主として、旧・西ノ入村を案内していただいた。

 西ノ入村をていねいに歩いたのは初めてだった。
 写真は、新井周三郎が幼少期に手習いを学んだという明善寺から見た、新緑の里山。
 植生は変わっているかもしれないけど、新井周三郎は、こんな景色を見て育ったのだろう。

 帰秩後、畑で小苗たちに潅水。

城峯神社

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城峯神社


 明治17年10月31日の夜0時ごろ、陸軍の測量師・吉田耕作が、秩父郡矢納村の城峯神社で眠りについていたところ、同神社の小使いが狼狽して駆け込んできた。

 続いて覆面の者ら数名が日本刀や火縄銃で武装のまま寝所に乱入し、耕作に向かって、「自分たちは自由党員である。今夜は、先生をご招待するためやってきた」と述べた。
 「なぜ自分を招待するのか、理由を言え」と返答すると、その者は「自分は先生を下吉田村まで案内せよという命令を受けただけなので、ともかく来てもらいたい。断るならばただではおかない」と、武器を突きつけて脅迫するので、神官及び測量作業員ともども神社を出立したのは、午前3時だった。

 一行はその後、城峰の山腹を下り、矢納村の間道を通って古峠に出たという。
 耕作によれば古峠とは、矢納村と上日野沢村の境というから、今の奈良尾峠か石間峠のどちらかである可能性が高い。
 峠についたころにようやく周囲が明けてきたというから、朝の6時前くらいだ。

 作業員は無関係と思われたので、二人の作業員のうち、伊藤を解放させ、しばらく行くと門平に着いた。
 奈良尾峠を越えると奈良尾耕地に行ってしまうので、古峠は石間峠のことのように思われる。
 いったん解放された伊藤だが、古峠手前で再び拘束されてしまった。

 20名ほどの暴徒に護衛されて、阿熊村の新井駒吉宅に着くと、5.60名ほどが列をなしており、座敷に通されると幹部が評議中で、机上には書類がおかれていた。

 年配の幹部らしき暴徒から、「昨晩は大勢でご無礼申し上げ、申し訳なかった。今、人民が地方税や負債のために苦しんでおり、干戈に訴えるべきでないと説得してきたが、結果的にこのような暴動を起こさざるを得なくなった。信州・甲州にも伝令を送ってあり、味方もおいおい増えるだろう。まずは秩父郡一円を平均し、援軍の来着を待って埼玉県と戦い、コトなる日には純然たる立憲政体を樹立しようと考えているので、自分たちに助力してほしい」というようなことを、太閤秀吉を譬えにひいたり、西郷隆盛の事績を語ったり、国民のために一命を投げうつのが報国の義だなどと言って説得されたが、きっぱり断ったと、耕作は述べている。

 その後、秩父困民党は下吉田村で警官隊と白兵戦を戦い、困民党・警官隊双方に死傷者が出る。
 幹部暴徒から、「状況が変わったので、お引き取りいただいてけっこう」と言われたので、作業員とともに城峯神社へ戻った、と耕作は復命している。

『最新・秩父事件』

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『最新・秩父事件』


 共著。最新刊。
 11月10日に秩父市内で行われる秩父事件140周年シンポジウムで、パネラーやります。

小海町文化祭

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陸軍陣地跡


 小海町の文化祭が始まったということで、出かけてきた。

 町の各種文化団体参加者が作った作品にじっくり見入ってきた。
 こういう催しはとても楽しい。

 友好団体の小海町史談会による秩父事件関係の展示もとても充実していて、見ごたえがあった。
 見るだけでなく、じっくりメモを取って勉強させていただいた。

 その後、秩父事件の11月9日早朝、陸軍高崎鎮台の吉野大尉と江口少尉に率いられた一個中隊が秩父困民軍に、側方から銃撃を加えた。
 正面からと側方からの銃撃によって、13名が倒れ、死屍累々の惨状となった。
 側方からの攻撃を担当した吉野・江口軍の陣地跡に建てられた石碑を見た。

カラマツベニハナイグチ

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カラマツベニハナイグチ


 東松山市で秩父事件シンポジウムが行われたので、参加してきた。
 とても多くの参加者で、盛況だった。

 写真は、カラマツベニハナイグチ。
 ハナイグチを期待したが、ほとんど出ていなかった。

東馬流古戦場

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秩父事件散華之地


 今年のいちごを片づけ。
 いちご跡地には白菜を植える。

 雨はよく降ってるのに、畑は乾く。
 芽の出たネギ類などに潅水。

 神社関係の用足し。

 竜興寺にお参りしてから、東馬流の古戦場を訪れた。
 ここには何度来たかわからない。
 古戦場碑はきれいに磨いてあった。

 ここで倒れた困民軍兵士のうち七名は、未だ氏名不詳。
 なんとか名前がわかればいいのだが、すでに140年が過ぎようとしている。

御座山

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御座山


 メイン大豆の赤大豆だが、今年は最初にまいた種が干天のため発芽せず、次にまいた種もやはり、干天のため発芽しなかった。
 大豆の種まき時期は6月下旬から7月上旬なので、ここまで来たらもう無理だと思われるのだが、来年の種くらいはとれるかもしれないので、この先数日の夕立に期待して、まき直し。

 午後から期待通り、スコールが来た。

 明治10年代に、北相木村の村の戸長・井出為吉らは大龍寺で学習会を開いていたという。
 学習会のテーマやテキストが何だったのか、どのような運営がなされていたのかなどは伝わっていないが、為吉宅に伝わるフランス革命史や法律書を見れば、彼らの関心がどこにあったかがうかがえる。
 明治初年は、知識に餓えた若者たちが集団で学ぶ時代だった。
 一つの典型が、五日市学芸講談会だった。

 すっかり晴れて、高台に建つ大龍寺の山門からは、御座山の勇姿が望まれた。
 為吉たちはいつもこの景色を見ていたのだなぁと思いつつ石段を下ったのだった。

2025年9月

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