古城址の最近の記事

松尾山

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キマダラヒカゲ


 松尾山山頂のテーブルにキマダラヒカゲが一頭。おれがベンチに座ると、こっちをじっと凝視している。

(おれ) ひであき !
(蝶) ・・・
(おれ) ・・・
(蝶) おぬしも、おれの悪口を言いに来たのか ? ここを訪れて、おれのことを裏切り者だとか、見下げ果てた男だとか言わないやつは一人もいない・・。
(おれ) ・・・
(蝶) 狂い死んでから、コチラの世界に来たおれは、大谷刑部どのにも、石田治部どのにも、手をついてあやまった。刑部どのも治部どのも、「是非もない」と申されて、お許しくだされた。
(おれ) ・・・
(蝶) ここ関ヶ原の、どの説明看板にも、おれの裏切りで西軍は総崩れになったと書いてある。おれはいつまで、人でなしの扱いを受けねばならんのか。教えてくれ。
(おれ) ・・・
(蝶) 苦しい。つらい。助けてくれ。
(おれ) ・・・

 小早川秀秋。1602年没。享年21歳。

小倉城址

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小倉城址


 夕方、草むしり少々。
 午前中は涼しいので、力仕事ができそうなのだが、涼しいあいだしかのんびりできないので、始動は夕方前からになる。

 写真は、昨日歩いた、玉川村・小倉城址の石碑。
 檜原城あたりとは異なり、小倉城はかなり大規模な城郭で、地域住民の避難所とは思われない。
 おそらく松山城の支城だったのだろう。

女部田城址

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堀切


 上吉田の女部田から女部田城址と向山を歩いた。
 女部田から大日の石仏があるところまで登り、女部田城址で大休止。
 向山から合角ダムへ下山した。

 基本的に道のないコースなのだが、合角ダムのコンクリート擁壁下りが最も困難だった。

 女部田城はこぢんまりとまとまった砦。
 日尾城は指呼の間にあり、土坂峠方面から上吉田への谷底道が丸見えで、いい場所に築かれている。
 尾根から二条の堀切を構えるが、防御性はさほど高くない。

 見張り場としては、たいへん好都合な要害だと思われた。

 畑に寄って帰宅後、薪棚作りの続き。

三増峠

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相模灘


 今日も半日、山林作業。
 公園のロウバイが一気に咲き始めたような気がする。

 今朝は氷点下1.9度とずいぶん暖かかった。
 春はまだ先だが、風の香りが変わってくると、野良に出たくなってくる。

 写真は三増峠の馬頭尊。
 小田原攻めの際に撃退された信玄は、三増峠を越えて相模川沿いに出て、甲府へ逃げ戻った。
 北条氏にすれば、信玄の息の根を止める絶好のチャンスだったのだが、津久井城の内藤氏はなぜか・・・。

(氏照から津久井城主・内藤氏への伝令) 申し上げます。信玄めを三増峠へ追い上げたから挟み撃ちにする。直ちに出陣せよとの殿さまよりお言葉です。
(内藤) うん。大儀であった。氏照さまによろしくな。
(伝令) 直ちにご出陣を。
(内藤) うーん。考え中。
(伝令) 考え中って・・。信玄めは小田原に放火し、女や子どもをさらって逃げ帰るところですぞ。キャツの息の根を止めるチャンスは今しかござりません。
(内藤) だから考え中だって。
(伝令) そんなバカな。

(内藤) おれは動かん。守りを固めるのだ。城内には誰も入れるな。
(家来) あとで氏照さまに叱られますぞ。
(内藤) たわけ。氏照さまには謝っておけばよい。ここは信玄に貸しを作るのだ。我らの小さな国を守るには、あちこちの殿さまに貸しを作る以外にあるまいが。

津久井城山

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津久井城山


 またも妄想登山。

 旧津久井町の城山駐車場から志田山・三増峠と山中を行き、さらに城山に登ってきた。
 城山と三増峠の距離感がつかめたのが収穫だった。

竜ヶ谷城

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南側の空堀


 氷点下6.7度まで下がったので、水道がまた凍った。

 出勤したのだが、仕事がないと言われたので、古城址めぐりに転向。
 吉田町の竜ヶ谷城へ。

 麓が別荘地になっているので、尾根の直下まで自動車で登れる。
 南からの登城ルートは露岩帯で天然の要害になっていた。ここはことさら手を加えなくても、守備兵さえいれば防御性は高い。

 岩を削ったらしき強固な空堀と竪堀を越えると主曲輪で、そこそこ広く、周囲は土塁を盛り上げて固めてあった。
 とてもていねいな作りで、ここを守る武将の意気込みが伝わってくる。

 その先も、空堀と曲輪・土塁が続き、堅固な山城という印象を持った。

長尾城址

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不動堂


 朝からムクゲ公園で山林作業。
 主として、小枝の処理。

 作業後、黒谷の長尾城址を散策。
 たしかに要害であるが、空堀は一つもなく、曲輪と思しき平坦地が二か所、存在した。

 説明板には、戦国時代の武将・長尾昭国ゆかりの城址と記されており、ネット上の登城記はほぼ全てそれを書き写している。
 しかし、長尾昭国については、彼の事績に関する記録は何もなく、その名のみが伝わる人物である。
 長尾景春とつながりのある人物ではないかという想定は十分ありえそうだが、それだと戦国時代の武将というには無理がある。

 防御性に欠ける構造から見て、この地域の避難場所的な役割を果たしていたのではないかと思われた。

 これは瑞岩寺不動堂。

猪俣城址

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猪俣城址


 午前中、山仕事をしてから、その足で寄居町(?)の鐘撞堂山へ。
 とりあえず、猪俣城を見に行った。

 本曲輪は小さな砦程度。
 二ノ曲輪と三ノ曲輪はあったが、小さな小屋が建つ程度の広さ。
 これが名胡桃城に殴り込んだ武将の拠点だと言われても困る感じだった。

 とはいえ、保存状態はまぁまぁで、このように小さな曲輪や空堀が残っていた。

空堀

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空堀


 滝山城址歩きまとめと自宅まわりの調整。
 出かけた翌日は、あまり働けない。

 写真は、滝山城の空堀。

滝山城址

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滝山城


 滝山城址を散策。

 氏照が八王子城に引っ越すまでは、関東一の巨城だったと思われる。
 戦争に際し必要な備えをほぼ完璧に組み込んである。
 強いて言うなら、全体のスケールが今一つなことくらいで、たいへんよくできたこの城を氏照が捨てたのは、秀吉の侵攻が迫っており、関東最大にして最強の八王子城を築く目処が立ったからだろう。

 写真は本曲輪あと。

2023年8月

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