古城址の最近の記事

松山城址

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松山城・本曲輪あと


 所用あって、東松山の知人宅へ。

 せっかくなので、午後、松山城址へ登城。
 武蔵の国衆だった上田氏の居城だ。

 規模はそこそこ。
 滝山城を二回りほど縮小したくらいか。
 関東平野の中にやや盛り上がった小台地の上に築かれている。

 規模はさほど大きくないが、基本的なパーツは揃っていて、戦国時代初期の平山城の典型だろう。
 武蔵北部を支配下に入れてはいたが、北上する北条氏と南下する上杉氏に挟まれて、城主の悩みは深かったと思われるが、最後は、北条の麾下に入ることを選択した。
 今まで比企郡に点在する支城群をけっこう歩いてみたが、北武蔵では随一の存在感を持つ武将だった。

一乗谷

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一乗谷


 郵便局と銀行で、超面倒くさい手続きでほぼ一日潰れた。
 大雨のため、身体休めになった。

 ここ数日、穴熊が昼間から庭を歩き回っている。
 町内放送では、自宅周辺で熊が出ていると何度も言っている。

 能郷白山から下山後、ひさびさに一乗谷へ行ってみた。
 その時には、ここが一乗谷です、という程度の説明しかなかったように思うのだが、整備がずいぶん進んで、大きな展示施設や復原町並ができており、観光客もそこそこ歩いていた。

 一乗谷は、山城の懐に形成された、非常に小さな城下町だ。
 朝倉氏の盟友・浅井氏の小谷城と、作りがよく似ている。小谷城の町並みは復元されていないが、おそらく、二つの尾根に囲まれた谷が家臣団の集住地で、その先が商人・職人の住居だったのだろう。
 城山に登ってみなかったので、山城としての規模は体感してないのだが、小谷城ほど大きなものではないと感じた。

 展示施設は、よくできていた。
 朝倉氏が支配した越前が「平和」だったと何度も言っているのには疑問があったが、ことによるとそれが正解なのかも知れない。
 朝倉義景が機を見るに敏であれば、戦国の歴史が変わったかもしれないし、越前にとって朝倉はヒーローたり得たかもしれない。

 写真は、一乗谷の核心・朝倉館。

佐和山

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繖山・沖島


 佐和山で、モンキアゲハが忙しく飛ぶ。

(おれ) みつなりさん。
(みつなり) おう、よくおわかりになられた。
(おれ) たしか京都のどこかでお休みではなかったんですか。
(みつなり) 蝶の姿になってな、あちこち飛び回っておるのよ。
(おれ) ここは景色がいいですね。
(みつなり) ああ、琵琶湖の手前に見えるのが信長さまのおられた安土の城じゃ。伊吹山の右が関ヶ原よ、ははは。
(おれ) さぞ悔しいでしょう。
(みつなり) 馬鹿をいうな。そちらの世とこちらの世は別世界じゃ。さすがに家康どのには含むところがなくもないが、道で会うたら挨拶くらいはいたす。哀れなのは秀秋よ。400年たつというのに、許してくだされというて、未だに泣き暮らしておる。いくさに負けたのは残念だが、致し方なかろう。それよりわしは、あのいくさで刑部どのという無二の友人を得た。思い出話が楽しいわい。
(おれ) コーヒー飲みます ?
(みつなり) そんな泥水みたいなものを飲んで、腹でもこわしたらなんとする。わしは遠慮する。
(おれ) 相変わらず、食べ物に気を使われてるんですね。さすが。

箱根登山鉄道

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箱根登山鉄道


 箱根の滝めぐりコースで鷹巣山へ。

 小涌谷に下山したら、登山鉄道が動いていた。
 この前湯本に来たときはコロナ前だったが、台風による土石流で線路が流失し、復旧できる感じがしなかった。
 湯本駅の三番線に電車は停まっていたが、待合室として利用されていた。

 コロナのためこちらに来なくなって復旧したことも知らず、バスで帰るつもりでいた。
 箱根登山鉄道は、ありえないような急カーブを曲がったり、急坂を登り下りしたり、スイッチバックで方向転換したり、かつての日本を思い出させるすごい技術のかたまりだ。

 もうまったく気分よく下山できたので、湯本からロマンスカーにも乗ってしまった。

諏訪城址

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諏訪城址


 縦に長い前線が停滞して、雨が続く。
 畑の作物にはけっこうなことだが、雑草にとっても恵みの雨となるから、やんだあとが怖い。

 時間ができたので、溜まっていた書き物など。
 なかなか進まない。

 昨日は火曜日だったので、調べ物のために秩父の図書館に出かけたのだが、休館日だった。
 図書館まで、自動車で往復50キロ近くあるから、徒労感が大きい。

 今日の午前中、やや晴れ間が見えたので、気になっていた大野原の諏訪神社に行ってみた。
 道路は通じているのだが、道幅が狭く、普通車の通行はきびしいので、畑に行きがてら軽トラで。

 ここは室町後期の諏訪城址である。
 規模は小さく、おおぜいが籠城できるスペースはなさそうだ。
 何より本曲輪まで、一ミリも登る必要がない。

 それでいて、防御性は極めて高い。
 というのは、曲輪の西・北・東のいずれもが荒川と横瀬川の断崖によって、近づくこともできない。
 南は平地だが、堀によって画されているから、ここからの侵入も簡単でない。

 城主については諸説あるが、確たることはわからないとすべきだろう。

 秩父事件のさなかだった1884年11月3日に皆野村から大野原に退くとき、田代栄助がここに陣地を構えよと指示したのは、この城趾ではなかったか。
 史料には、その位置は下小川橋付近とあるが下小川橋と諏訪城址は300メートルほどしか離れていない。

 城址の現場でいろいろ考えてみようと思っていたのだが、驟雨が来たので、写真だけ撮って退散。
 思えば鉢形城を始めとして、荒川そのものが要害なのだ。

光城山

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蝶ヶ岳


 中信・豊科の光城山へ。快晴・大展望ですばらしい。ドリップコーヒーをすすりながら北アルプスを眺める。

 常念さんの左に蝶ヶ岳が見える。年少の友人たちとあそこに行ったのは2006年だった。
 お金がなくて鈍行で行くから朝5時に出ても中房温泉に着くのは午後を回った。
 合戦尾根の急登を見ただけで心の折れた何人かは登らないで帰った。残りのメンバーは翌朝から元気に登り、10時間かけて大天井岳のテント場へ。

 次の日、お花畑の道を常念小屋までは順調だったが、常念さんへの2時間弱の急登で体力をひどく奪われた。
 蝶槍あたりで最年少の仲間が弱音を吐き始めた。
 やや年上の少年が「苦しいのはお前だけじゃないんだ。みんな苦しいんだ。でも頑張って登るんだ」と叱咤した。
 それに励まされてしばし頑張ったが、それまで黙々と歩いていた別の少年が「もう無理だ。もう歩けない」と言ってへたり込んだ。夕方が近づいていたが、蝶ヶ岳まではまだ登らねばならない。

 小田原評定している余裕はなかった。おれはその少年に「お前のザックをよこせ」と言って、70リットルザックを2つ背負い、蝶ヶ岳までなんとか歩いた。
 この日の行動時間は11時間を越えた。予定では翌日、徳本峠まで行って幕営するはずだったが、その時点でみんなにそれだけの体力・気力は残っておらず、長塀山から徳沢へ下ったのだった。

 ドラマに満ちた5日間が終わり、上高地からバスに乗ればもう、携帯とゲーム大好きないつもの若者たちに戻っていた。

天引城址

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ミツバツツジ


 甘楽町の天引城址へ。

 天引城の由来については、明確でない。
 ネットでは山内上杉氏の家臣・甘尾若狭守の居城という説が紹介されているが、根拠に乏しい。

 数段にわたってていねいに削平された曲輪を見ると、地元の土豪の城かと思えるが、根小屋らしき一角や氏神・氏寺らしき寺社も見当たらないから、百姓の城だった可能性も否定できない。
 永禄5年に、武田信玄が略奪した穀類をここに集積したという記録があるようだが、それだけではなんとも言えない。

 明確な堀切は1ヶ所だけだが、山のあちこちに岩場を構え、防御性は高い。
 ミツバツツジがちょうど満開で、美しいこと、この上なかった。

 下山後、農作業。
 こんにゃく予定地の草むしり。

神成城址

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オキナグサ


 富岡の吾妻山から龍王山へ。

 丹生川と鏑川に挟まれたヤセ尾根で、小幡氏の神成城址でもある。
 お菊さんをいじめ殺した小幡氏のことを、おれは大嫌いだ。

 登山口近くでは、オキナグサがちょうど花盛りだった。

 下山後、畑に行って、ビーツの種まき。
 そら豆のメンテ。

金山城址

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仙ノ倉山とエビス大黒


 学年末の成績処理と有志団体の会計処理という根詰め仕事が続いて、身体が硬直し始めたので、西上州・日野の谷へお茶を飲みに行った。
 子王山と平井金山城址のダブルヘッダー。
 金山城址からは、仙ノ倉山とエビス大黒が見えた。

 今夜また降雪予報なんだが、あまり降らないでほしい。

国峰城址

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国峰城址


 自宅周辺の雪はほとんど溶けていないが、せっかく晴れたので甘楽城山へ。
 展望を期待したけど、山頂は雑木林の中だった。

 枝の中にあいた小(しょう)Windowから見える表妙義の岩壁に雪はほとんど付いていない。

2025年5月

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