大豆の種まき。
赤大豆と光黒。光黒は途中まで。
大豆の出来は、今年の夏の気温次第と思う。
エルニーニョだった去年は、まぁまぁ。
今年はラニーニャ予想なので、だめかも知れない。
北紫でサラダ。
風味は普通。
パープルカラーは茹でるとやや褪せる。
大豆の種まき。
赤大豆と光黒。光黒は途中まで。
大豆の出来は、今年の夏の気温次第と思う。
エルニーニョだった去年は、まぁまぁ。
今年はラニーニャ予想なので、だめかも知れない。
北紫でサラダ。
風味は普通。
パープルカラーは茹でるとやや褪せる。
じゃがいもの試し掘り。
開墾地みたいなところに植えたので、穫れなくて当然と思っていたら、まぁそんな感じだった。
でも当座、食べる分には十分。
人参もでき始まったから、こないだ穫った玉ねぎと一緒に、今日から華麗じゃなくて、加齢じゃなくて、カレーな毎日。
じゃがいもの植えつけ終了。グランドペチカ・十勝こがね・北紫・ノーザンルビー。
グランドペチカは芽が出やすいので、来年はやめようかと思う。
去年あたりよりたくさん植えたような気がするが、消耗したヒネ芋が多いのでそれほど収穫できない予感。
午後から吹上町でちょっとした会合。
帰りがずいぶん遅くなった。
写真は、旧上日野村・馬渡戸(まつば)耕地にある、新勝流枝切術の碑。
列島の風土に適した仕事の一部である造林技術も、伝統と試行錯誤のたまものである。
枝打ち技術も枝打ち道具も消えていくとしたら、あとになにが残るのだろう。
昨日、降り始める前にじゃが芋を掘り終えた。
面白いことに、品種により、作柄はさまざまだった。
軽トラに大量のじゃが芋を積んだまま、スーパーに寄ったのだが、買い物を終えてクルマに戻ると、南米系かと思われる外国の方に、赤や紫のじゃが芋を売って欲しいと、たどたどしい日本語でお願いされた。
作物を売る経験がなかったので、これは売り物ではありません、と言ってお断わりしたのだが、「ドモ!」と言って別れたあと、これらのじゃが芋は彼のソウルフードだったのではないかと、思い至った。
じゃが芋が惜しいわけでないので、もしそうだったとしたら、ただで一袋、差し上げればよかったのだ。
自分の思いの浅さと内気さを、今日一日、恥ずかしく思った。
終日、農作業。
じゃが芋を掘り終えた。
収量は並作の下というところ。
食べる分には十分。
玉ねぎの収穫。
苗をさほど植えなかったので、収量はそれなりだが、食べる分には十分。
大麦あとの片づけ。
写真は、小菅山登山道の巨杉。
奥の院近くには、このクラスの杉が多かった。
今日も農作業。
じゃがいも掘り。十勝こがねを掘り始めた。
けっこう頑張ったが、掘りきれずに途中まで。疲れた。
写真は、薬王院山門。
仁王像は別のところにあるとのことだった。
お寺が取り込み中らしく、拝観はできなかった。
じゃが芋の土寄せ。
残りのナス三本の植えつけ。
今年のナスは四本植えた。
一本から20個とれるとして、シーズンで約80個。
シーズン300個くらいのナスなら無理なく食べ切れるだろう。
落花生と四角豆の種まき(直播)。
バックアップ用に四角豆とオクラをビニールポットに種まき。
写真は、鴨ヶ嶽から望んだ妙高プリン山。
終日、農作業。
こんにゃく予定地とブロッコリー等予定地を耕うん。
ブロッコリー予定地は畝立てとマルチ張りまで。
じゃがいもの芽が出始まった。
これからまだ、霜が何度か降りるので気が抜けない。
ウドやアスパラも出始まった。
写真は、行司岳から望む越前平野。
1575年、織田信長は越前一向一揆を壊滅させるため、ここに進撃し、一揆の参加者やその家族一万人以上を虐殺した。
前田利家など、千人以上を磔刑ないし釜茹でにしたと記録されている。
利家は、穏やかな人格者だとおれは思っているのだが。
拉致され、美濃に連行された人は数万人。
その後、この人々は売られて、連行した武将の懐を潤した。
すべて、信長の皆殺し命令による。
信長は手紙に「府中の町(現在越前市)は死骸ばかりにて一円あきどころなく候。見せたく候」と書いている。
今はきれいに耕地整理され、裏作の小麦が伸び始めている。
朝から鎮守の祭礼。
午後は農作業。
じゃがいもの植えつけ。
いつも通り、ノーザンルビー・キタムラサキ・グランドペチカ・十勝こがねを植えた。
里芋の植え穴掘り。
里芋の植えつけはまだまだ先だ。
マリーゴールドの種まき。
草花の植え替え続き。
写真は、青葉山で見たブナ。
低山なので、ブナ林ではなく、ブナ混じりの雑木林だった。
今日も草むしり。
草の伸びが凄まじい。
四角豆のヤグラに網かけ。
今年作ったじゃがいものうち、休眠が最も浅いのはグランドペチカだ。
だからまずはこの芋を優先的に食べてしまう。
とはいえ、そんなにすぐ芽が出てしまうわけではない。
夕方、薪作り少々。
最近のコメント