
終日、農作業。
最高気温は35.2度と殺人的ではなかったが、暑いことに変わりはなく、けっこうダメージになった。
大量との草むしりとさつま芋予定地掘り。
軽トラのオイル交換。
春にまいておいたスイートコーンがそろそろ終盤を迎える。
網をかけておかないと必ず、鳥か動物に食われてしまう。
二つできたので、一つはカラスにあげてもいいのだが、いつも美味しそうな方を持っていかれる。
こうやって一粒残らず丁寧に食ってもらえば、あんまり悪い気はしない。

終日、農作業。
最高気温は35.2度と殺人的ではなかったが、暑いことに変わりはなく、けっこうダメージになった。
大量との草むしりとさつま芋予定地掘り。
軽トラのオイル交換。
春にまいておいたスイートコーンがそろそろ終盤を迎える。
網をかけておかないと必ず、鳥か動物に食われてしまう。
二つできたので、一つはカラスにあげてもいいのだが、いつも美味しそうな方を持っていかれる。
こうやって一粒残らず丁寧に食ってもらえば、あんまり悪い気はしない。

朝から畑仕事。
さつま芋予定地掘り。
夏野菜の手入れ。
刈払機の調子が悪いので農機具屋さんに預けてあったのだが、それが直ってきた。
夏は刈払機・冬はチェンソーがないと生活が成り立たない。
写真は、八間山でみたコオニユリ。

野反湖畔・八間山へ。ここは二度目。
この前登ったのは1992年だから、34年ぶりの再訪。
前日までの予報は悪くなかったのだが、登山口についたら、小雨だった。
まぁいいか、と登り始めた。
降りっぱなしだったわけではないが、降ったりやんだりで、さほどいいコンディションでもなかった。
前回同様、八間山から富士見峠へ降りて周回するつもりだったが、雨に濡れたヤブをこぐ気力がなく、来た道を戻った。
このところ、花を見ない山ばかりだったが、ここはおおむね風衝草原で、花もそこそこ見ることができた。
日本は立憲君主国だといわれている。天皇に政治的権能がまったく認められていないので、君主国というのはどうかという意見もあるかと思う。しかし、天皇が世襲に基づく特権身分であることは事実なので、やはり君主国でいいかと思う。
君主を世襲制を認めることについて、トマス・ペイン氏はきわめて否定的である。彼はイギリス王国を目の敵にした人なので、当然と言えば当然なのだが、その理由を聞いてみよう。
ペイン氏は世襲制のことを、「こんな無分別で、不正な、しかも自然に反した契約のために、次の世代には子孫たちが悪党やばか者たちの統治に服するかもしれない」(『コモン・センス』)と罵倒する。そして、「多くの者は恐怖心から、その他の者は迷信から服従しているが、有力な連中になると、人々から巻き上げたものを王と一緒に分け合っているのだ」(同)という。
王が悪党だったり、ばか者だったりすることは当然ありうるわけで、彼はそれを指摘しているに過ぎない。日本の未来の天皇が、悪党やばか者でない保障など、ない。
王の起源は何なのか。つまり、初代の王はどのようにして王になったのか。
「古代の暗いベールをとり除いて王族の起源を探るなら、初代の王は行動力のあるギャングの親分に過ぎなかったことがわかるだろう。かれは野蛮な手口や悪知恵にたけていたため、略奪者の間で首領という名をもらったのだ。そして勢力を伸ばし、略奪範囲を広げることによって、おとなしい無防備な人間を脅しつけ、身の安全を図ろうとする者からしきりに貢ぎ物を巻き上げていたのだ」(同)
君主制を批判した初期の民主主義思想家は、初期の君主について、容赦ない。初代君主はギャングの親分だとペイン氏はいう。
絶対主義の時代(民主主義革命が起きるやや以前の時代)には、イギリスでもフランスでも、王権の起源を神に求める説(王権神授説)が広く行われた。ペインは、「口移しで伝えられた歴史は、作り話でいっぱいであった。そこでマホメットのように二、三代たってから頃合いを測り迷信的な物語をでっち上げて、世襲権を民衆に押しつけることはいとも容易なことだった」
太安万侶がトマス・ペインと対話したら、怒りに震えただろう。「アンタの書いた本は作り話でいっぱい」と言われたのだから。
実際のところは、下記のようなところか。

朝から集落のお宮の祭礼。
朝は晴れていたが、お昼前に少し降った。
夕方に畑へ。
さつま芋挿し。
さつま芋予定地作り。
草むしり少々。
ツクツクボウシ初鳴き。
きゅうりがピークである。

午前中に畑仕事。
草むしりと防草シート敷き。
例年なら2対8くらいで草に負けてるのだが、今年は今のところイーブンで戦えている感じ。
それでも、畑は草だらけだ。
少し休んで、夕方まで秩父市の図書館に行って勉強。
写真は、浦倉山の帰りに立ち寄った嬬恋村の半出来温泉。

不要パソコンを処分した。(有償)
けっこうな費用がかかったが、助かった。
その後畑に行って、草むしりとさつま芋予定地の準備。
今日は34.5度と相対的に涼しかった上、夕立もあったので、快適と言えば快適だった。
野地平湿原で咲いていたのはノハナショウブくらいだった。

朝から人間ドック。
とても体力を使う。
帰宅して少し休み、畑へ。
さつま芋数本を挿した。
最高気温は38.7度で、夕立なし。
写真は、浦倉山で見た、ダケカンバ。

朝からほぼ終日、農作業。
草むしりと防草シート敷き。
本日の最高気温は38.0度と、一段と暑くなったので、お昼前に一度退散して、夕方また出かけた。
タイガーメロンができ始めた。
冷やして食べると、ほの甘くて美味い。

朝から農作業。
各種夏野菜のメンテ。
草むしりと防草シート敷き。
最高気温は37.1度と出ているが、身体に堪える暑さだった。
写真は、浦倉山でみた高原モズ。
レンズの力が足りず、鮮明な写真は撮れなかった。

上信国境の浦倉山へ。
嬬恋村と須坂市の境界なんだが、それはどこかと言われてもピンとこない。
パルコールスキー場の駐車場から往復。帰りはゴンドラでと思っていたが、平日はゴンドラ休業だった。
野地平湿原に期待していたが、乾燥化が進んで草原と化しており、草花はほとんど咲いていなかった。
平野部の気温は39度くらいと、ひどい暑さだったが、山はそれほどでもなかった。
戦後すぐの時期に、熊沢天皇事件が起きた。愛知県で雑貨賞を営んでいた熊沢寛道さんが、「自分は後亀山天皇(南朝)の子孫であり、裕仁(昭和)天皇は不法に帝位を奪った北朝の子孫であるから天皇として不適格」と主張したのである。熊沢さんは昭和天皇を告訴したが、天皇は裁判権外の存在だという理由で訴えは却下された。
後亀山天皇の没年は1424年とされる。このかんの国会審議の過程で宮内庁の緒方禎己次長は、今回成立した皇室典範改正案に関し、養子となりうる旧宮家について、「崇光天皇の皇子・栄仁親王から始まる伏見宮の系統であり、1428年に系譜が枝わかれしたものと承知している」などと説明した。(7/10『毎日』) 緒方次長が述べられている時期は、天皇家が混乱の極みにあった時期である。
15世紀始めはまだ、南北朝時代のさなかで、天皇を自称する人物がふたり存在し内乱状態にあった。天皇の証明たる三種の神器を所持していたのは、熊沢さんがご先祖だと主張する後亀山天皇だった(これもやや怪しい)が、後亀山が1392年に、北朝の後小松天皇に天皇の地位と神器を譲る形で、内乱が終わった。ちなみに現在の天皇家は北朝の系統だが、戦前までは、南朝(すなわち後亀山天皇の側)が正統とされ、現天皇の先祖である北朝側の天皇は、いまなお歴代天皇の数にも入れられていない。
室町時代の始めごろに天皇だった人の子孫が、男系の子孫だという理由で、宮家(いわゆる皇室)の養子となり、その子が皇位継承者になることが、今回の改正で可能になったのだが、いくら理論上とはいえ、室町時代までさかのぼれば親戚だというのは、無理がありすぎる。ひろゆきさんが「36親等遡って親族って言うなら、地方で昔から住んでる近所の人は、ほぼ全員親族だよ。。。1代遡ると親族は2人 10代遡ると親族は1,024人 20代遡ると親族は約100万人 30代遡ると親族は約10億人」と述べているが、そのとおりである。皇族になる資格がある可能性がある人はうじゃうじゃいるだろうから、今後、熊沢天皇が続々とあらわれるかもしれない。
そして、まちがいなく天皇の子である愛子さんは、ご本人の意思にかかわらず、絶対に天皇になれない。愛子さんがどんな人か、おれは知らないし、この件(愛子さんが天皇になれない件)に関してあまり関心がないのだが、世論調査を見る限り、国民の中には愛子天皇期待論も強いらしい。おれはポピュリズムは嫌いだから、絶対に賛成しないが、小林よしのりさんとかが「愛子さんを天皇にする党」を作って次の選挙に候補者を立てたら、そこそこ支持されるんジャマイカと思ってしまう。

霧雨状態になったので、午後から畑仕事。
草むしり少々。
防草シート敷き少々。
さつま芋挿し。
さつま芋予定地掘り少々。
ミンミンゼミ初鳴き。
写真は、ハナビラタケのジャーマンポテト風。

やみ間を見て、畑仕事。
草むしり少々と防草シート敷き。
芽の出ない人参の追加種まき。
夏の人参はじつに芽が出ない。
ひどい暑さが一段落して助かるが、週明けには次の熱波が来る。
写真は、ハナビラタケを使ったパスタ。

いんげん摘み少々。
いんげんを毎日摘んでは干す。
さつま芋挿し少々。
さつま芋予定地の造成続き。

クルマのメンテのため町へ出かけ、いんげんを摘んで帰った。
いんげん摘みも峠を越えた。
上信国境のカラマツ林でハナビラタケを見つけた。

毎日、いんげん摘み。
そろそろ峠を越えたと思うが、まだまだ残っている。
さつま芋挿し。
草むしり。
写真は、チャツボミゴケ。

上信国境のチャツボミゴケ公園から水池・大池・平兵衛池と歩いた。
登山コースでだれにも会わない、静かな山だった。

秋いんげんのツルが伸びてきたので、ひもで誘引。
ローゼルとガーデンハックルベリーのメンテ。
さつま芋予定地の造成続き。
春いんげん種実摘み。
写真は、坊寺山登山口付近の湿地で咲いていたオオバミゾホオズキ。

終日、秩父事件史跡めぐりのガイド。
暑くはあったが、さほどひどくなくて助かった。
夕方、春いんげんの種実とり。
写真は、坊寺山から望んだ志賀山。

梅雨があけたようだ。
午前中、畑に食べ物をとりに行くだけで汗が出た。
いったん退散して、夕方にまた行って、キャンディランタンの手入れ。
写真は、坊寺山から望んだ岩菅山(右のピーク)。
あそこへ登ったのはなんと38年前だ。

志賀高原の坊寺山へ。
登山口からいきなり、ネマガリタケの激ヤブ。
登りにかかるところからはヤブなし。
山頂からは、岩菅山や志賀山が見えた。
下りでは、完全にルートをロストした。
ササの薄いところに逃げようとしたら、大型動物がガサガサ動いた。
ヤブの中では身動きできないので、少し開けたところに移動してスプレーを構えたが、動物は遠ざかっていった。
写真は、登山口から望んた坊寺山前衛・小幕岩。

雨のやみ間に秩父市街地ウォーク。
羊山公園に自動車をとめて、羊山-札所15番少林寺-番場通り-秩父神社-大宮学校跡-竹寿館跡-近戸地蔵院-下影森金仙寺-矢尾百貨店・旧秩父警察署跡-西武秩父駅と回って、羊山公園に戻った。
秩父事件の際に殉職された埼玉県警の二人の巡査(窪田鷹男・青木与市)の墓所と碑が、少林寺墓地にあるのだが、山縣有朋が撰文した碑文の下部が風化により崩落していた。
秩父神社にある、田代栄助の祖父・父が奉納した灯籠の文字も崩落し始まっている。
早く対処しないと、石に彫った文字が読めなくなる。

朝から、国道の草むしり。
疲れたのと雨が降ってきたので、少し休んでから畑仕事。
さつま芋予定地の造成。
そら豆の来年用種子が余ってるので、しょうゆ豆を作った。
焙烙がないので、厚手のフライパンで煎った。
漬け液を甘めに(醤油を少なめ・砂糖多め)すると、かなりイケル。

昨日の帯状疱疹ワクチンの副反応は、自分的にはかなり強烈だった。
ちょっと甘く見ていたので、接種後いつも通りに農作業をしたのだが、夕方以降、疼痛のみならず、ひどい疲労感に見舞われた。
食事と入浴をすませたのち、朝までずっと横になっていたら、なんとか回復したが、まだ本調子ではない。
本日も農作業。
秋いんげんにヤグラ立て。
草むしり。
ナス(購入苗)ができ始めた。

朝から病院に行って、帯状疱疹のワクチン接種(一回目)。
そのおかげで、腕の疼痛あり。
大福豆を畑に植えつけ。途中まで。
つくね芋のメンテ。
小豆のメンテ。
四角豆に支柱ヤグラ立て。
防草シート張り。
最近、あまり飲まなくなったのだが、美味しそうなのを見るとつい、買ってしまう。
庄内町の純米・鯉川。庄内の酒はやや疑問だったのだが、自分の飲みが浅かったことがよくわかる。好バランス・米の美味さがよく引き出された美酒。


「国旗の損壊等の処罰に関する法律案」には、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の拘禁刑又は二十万円以下の罰金に処する」とある。(衆議院サイト https://www.shugiin.go.jp/.../honbun/houan/g22105018.htm)
「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させる」ことは、どう考えてもよろしくないことなので、自重されるべきである。「公然と国旗を損壊」することによって「著しく不快又は嫌悪の情を催」す方がいるのは事実だから、おれは人前でそんなことはしない。
しかし、日の丸を目にするだけで「不快又は嫌悪の情」を持つ方もいる。それは外国人だろうと言われるかもしれないが、日本国憲法の保障する基本的人権は、日本国内にいるすべての人間に同じく保障される(参政権など一部は適用外)。もちろん、日の丸が日本近代史において対外侵略と国内における人権抑圧のシンボルだったと考える日本人(おれのこと)もいる。だからおれとしては、できれば日の丸など見たくはないが、日の丸を見て嬉しく思う方もおおぜいおられるのだから、日の丸を損壊したり、罵ったりする気は毛頭ない。
この法案には、日の丸は侵略と人権抑圧の象徴だったと言っただけで刑務所行きとは書かれてない。しかし、国旗国歌法制定当時、政府は、人々の心を縛る法律ではないということを再三、説明してきた。しかし、「日の丸」の前で起立しないとか、「君が代」を歌わないという理由で、多くの先生たちが懲戒処分・不利益処分を受けてきた。適用範囲の曖昧な法が、制定当時の説明を越えて拡大適用されることは、歴史が証明している。
1942年2月に帝国陸軍は、シンガポールを占領した。占領後日本は、シンガポールを「昭南」と改称し、連合軍の捕虜の強制労働により昭南神社が造営された。
その後、抵抗勢力とみなされたシンガポールの軍民多数(5000人から30万人まで幅あり)が。日本軍により殺害された。これにつき日本政府は、5000万シンガポールドルの補償を支払った。
これらの写真は、シンガポールの中学生向け近代史教科書『Social and Economic History of Modern Singapore』(1985)に掲載されたものである。
日の丸が果たした歴史的役割を隠蔽することはできない。

午後から雨の予報だったので、朝から農作業。
人参の種まき。
梅雨明けころにまくと発芽しないで終わることが多いのだが、今年はなんとか、発芽してほしい。
秋いんげんの植えつけ準備。
尺丈山から下山後、陰陽山をハシゴした。
写真は、陰陽神社拝殿。
ヒグラシ初鳴き。