
朝から旧ムクゲ公園で山仕事。
自宅で薪作り。
チェンソー刃研ぎで日没。
写真は、摩耶山で見た樹種不明の大木。
スダジイかもしれない。

朝から旧ムクゲ公園で山仕事。
自宅で薪作り。
チェンソー刃研ぎで日没。
写真は、摩耶山で見た樹種不明の大木。
スダジイかもしれない。

朝から旧ムクゲ公園で山仕事。
その後、自宅で薪作り少々。
チェンソー刃研ぎ。
一日、チェンソーとマサカリを振っていてので、明日は筋肉痛の予定。
写真は、迫子浅間山から下山後に立ち寄った本居宣長記念館に併設された、旧宣長宅。
彼が到達した日本にかんする結論については同意できないが、尊敬すべき碩学だと思う。
ちょっと勇気をいただいた感じだった。

さつま芋の片づけ。
いつもは食べきれないことが多いのだが、まぁまぁできたにもかかわらず、全部消費できた。
四角豆とゴーヤの片づけ。
支柱ヤグラの解体はまたあとで。
大豆は今年も大凶作だった。
味噌用の豆はすでに買ってあるが、もっと買わねば間に合わない。
冬型っぽい強風が吹いているが、空気はまだ暖かい。
写真は、迫子浅間山のウバメガシ林。

秩父事件と神社関係の雑務。
その後、畑仕事。
草むしり。
潅水。
ウドの片づけ。
野沢菜の収穫(第一次)と漬け込み。
エゴマの唐箕かけ。これだけとれれば十分。

六甲山へ。
けっこうな登りだったが、山頂はレストラン街だった。
いつもならラーメンを食べるのだが、こんなところでお湯など沸かせないので、人のいないところで休んだ。
下りはケーブルカー利用。

大和大学で終日、勉強。
下校時には日が暮れていた。

六甲山系・甲山。
小さいころ、「甲山はすごいのだ。何しろ、虫がいっぱいいるのだ」と聞かされて、虫が大好きなおれは、甲山にぜひ行きたいと思ったのだが、電車に乗らねば行けない甲山にひとりで登るのは無理だった。
60数年ぶりのリベンジを果たすことができてうれしい。

六甲山系・摩耶山。
荒れた雑木林の山かと思ったが、頂稜に近づくと立派な照葉樹林だった。
天上寺が焼けたのは1976年とのことなので、見る気になれば見ることができたはずだ。
山門は昔のままだとのこと。

志摩半島・迫子浅間山。
すごいリアス海岸だった。
これぞ日本列島という風景。

鎮守の会計終わり。
畑の草むしり。
渇水の晩秋になったので、潅水少々。
次回の降水はまったく見えない。
薪作り少々。
難物がまだ少し残っている。
写真は、宝登山で見たたぶんオオモミジ。

朝から鎮守の新嘗祭。
祭典の会計処理。
午後から薪作り少々。
畑のナス・オクラの片づけ終了。
エゴマ収穫終了。
草むしり。
青菜ができ始めた。
大根・白菜がたぶん不作なので、これは助かる。

自宅枯れ木置き場の整備。
畑に行ってナス・オクラの片づけ。
今年もよくナスを食べた。
しかし苗四本では多すぎるし、挿し木苗作りのノウハウがわかったので、来年はもっと減らすつもり。
エゴマの刈り取り。途中まで。
写真は、宝登山で見たシータテハ。
このところ小春日和の穏やかな日なので、蝶も飛ぶが、かれらはこれから越冬の正念場だ。

またまた、秩父の大地の成り立ちを考えるために、今度は宝登山へ。
思っていたような景観を見ることができて、大いに満足。
山頂でラーメンを食べていたら、「うぉーい !」「いぇーい !」と、とてつもなくでかい声で怒鳴りながら、高校生の一団が登ってきた。
その子たちときたら、とにかくでかい声で間断なく、「うぉーい !」「いぇーい !」と叫ぶ。
「着いたぜ、うぉーい !」「のど乾いた、いぇーい !」「写真撮ろうぜ、うっしゃー !」「はいチーズ、いぇーい !」
少し年長のお兄さん(たぶん先生だと思う)が、「も少し先の展望台で弁当にしまーす !」と言ったら、声を揃えて「やったー、いぇーい !」と言いながら、去っていく。
とてつもない喧騒の集団がいくつか、訪れては去っていった。
しばらくすると山頂は再び、高齢のハイカーが静かに憩う静寂に包まれた。
おれは、「10年ほど前に受け持ってたクラスは、あいつらよりもっと騒がしかったぜ・・」と、ちょっと懐かしくなっていた。
展望はまぁまぁで、先週登った破風山の向こうに、甲武信ヶ岳が見えていた。

花梨枝の片付け続き。
薪作り少々。山のようだったケヤ玉がかなり少なくなった。
午後、畑へ。
大豆は今年も凶作だった。
種子もとれないかもしれない。
夏の暑さのため、種まきを後ろにずらしているのだが、九月になっても真夏と同じように暑いので、いっそのこと、早まきで対応したほうがいいかもしれない。
写真は、岩原城址の大ミズナラ。

花梨枝の片付け。
薪作り少々。
鎮守の祭礼準備。
写真は、岩原城址・本曲輪手前斜面の大ツガ。

安曇野・堀金村の岩原城址へ。
砂渡山神社から尾根上の踏みあとをたどる。
傾斜がきつく、こんな城を攻めろと言われたらやだなぁと思いながら登った。
本曲輪の説明板には「堅固な防御が特徴の岩原城」と書いてあって、納得した。
晴れ予報は間違ってなかったのだが、常念さんは雲の中だった。

薪作り少々。チェンソー刃研ぎ。
午後は畑で草むしり。
写真は、池山で見たムキタケ。
あまりたくさんとれなかったので、その場で食べてしまった。

やはり疲れたので、お昼前に畑へ。
各種収穫。
草むしり。
各種食べ物作り。
水曜日に氷点下が想定される。
写真は、破風山で見たアカタテハ。

終日、秩父事件の史跡めぐり。
天気もよく、いい巡検だった。
コロナワクチンを打った腕が痛かったが、発熱等はたぶんなかった。
破風山11回目。
足元に広がる展望から、大地の成り立ちと人々の暮らしを読む。
堀切と太田との境の細い沢は奥が浅いが、まとまった雨が降れば、用水として使えたかもしれない。しかし、旱天ではどうにもならなそうだ。
田んぼはできるが、苦労するだろう。
太田の中央を貫通する伊古田川が、太田田んぼを潤したメインの水源だ。
浸食は浅く、取水も困難でない。
並行して流れる蒔田川と似ている。
しかしこれだけ広大な田んぼに水を行き届かせるには全然足りない。
戦後に、赤平川からポンプアップできるまでのコメ作りは、大変だっただろう。
旧太田村を俯瞰すると、赤平川沿いに人家が立ち並ぶ。
川は深く侵食されていて、河岸段丘はない。
これを見ると、ここの河道は河岸段丘ができるより前、比較的早くに定まったものだろう。
比高はほとんど存在しないが、赤平川べりは自然堤防で土砂が堆積し、地盤がしっかりしているのに対し、その背後、南側は傾斜のほとんどない後背湿地をなしている。
この後背湿地が太田田んぼなのである。
西に目を転じてみると、下吉田が見える。
ここは赤平川と吉田川の合流点にあたる小盆地だが、いずれの川も流路は曲がりくねり、また浸食は浅い。
これを見ると、河道が定まり侵食が進む以前に文明が訪れ、氾濫原の中に市街地ができてしまったことが想像される。
さまざまなことが観察できて、学ぶこと多き山行きだった。
自然堤防・河岸段丘・氾濫原・後背湿地などは、地理の教科書に出てくる基本用語なんだが、この山に立つと、それがひと目で見学できちゃうんだから、楽しい。

ごまが乾いたと思われるので、トウミ掛け。
まずまずとれた。
向こう一年、ごまを飽食しても大丈夫。
コロナとインフルワクチンをダブル打ち。

お昼過ぎてから破風山へ。
6年ぶり。これで11回目。
奥武蔵や秩父の里山には、山の中にお茶の木が多い。
今はスギ林だけど、かつては、お茶畑だったんだろう。
杉が育って暗くなっても、お茶は枯れずにいるから、花も実も残っている。

午前中、思うところがあって、畑から裏山をひと回りした。
中間地点のあずま屋で小休止。
奥秩父連山(芋木ノドッケ・飛龍山・和名倉山・雁坂嶺あたり)を眺めながら、干し芋とササギ汁粉をいただいた。
たいした歩きじゃないので、お腹いっぱいだ。
午後、冬越し野菜その他のメンテナンス。
通院。

午前中、薪作り少々。
午後は農作業。
玉ねぎを植え終えた。
今年は苗作りが異常にうまくいったので、おそらく600本以上植えた。
Runの日。

小鹿野市街地の秩父事件関係史跡を終日、散策した。
同行したMさんのおかげで、新たな知見が多かった。
写真は、両神村薄の甲源一刀流顕彰碑。
撰文は旧鉢形村の漢学者・雨宮春潭である。

秩父事件141年の日。
午前中は書き物。
午後は畑仕事。
玉ねぎ苗の植えつけ。
300ほど植えたが、苗がまだ残ってるので、残りはまた、後日。
つくね芋の素揚げ。
自然薯系芋の食べ方としてはこれが好きだ。
あまり飲まなくなったのに、山へ行くたびに地酒を買ってしまう癖が残っているのだが、今日は日本酒が美味しい。