
武州日野駅の裏・浅間神社の境内の一画に、開拓団招魂碑がある。碑文はそこそこ長いもので、副碑には、犠牲者の氏名が刻まれている。
五族協和・王道楽土の理想に燃ゆる満州開拓団として旧中川村白川村は昭和十四年以来夫々分村計画を樹てゝ渡満旧中川村は閻家を中心に百三十五世帯五百九十三名旧白川村は楡林に四十世帯二百一名いづれも苦楽を倶にし力を協せ営々として荒野を拓き施設を急ぐ 昭和二十年八月突如ソ連軍の不法侵入に戦雲俄かに急を告げ十三日楡林開拓団の青壮年は悉く現地に応召となり老幼婦女は断腸の思いに積年の蓄財を棄て言語に絶する苦難の山道を相抱き相慰めて避難すること五十余日辛くも新京に辿り着く 閻家の中川開拓団亦暴戻なソ連軍匪賊に退路を遮断され相次ぐ非道の襲撃に犠牲者を出すこと前後実に百六十三名指導者既にソ連軍に拉致され残る者極度の困憊と悪疫に苦しみつゝ山野を彷徨すること十八日漸く方正県に難を避く かくて楽土建設の雄図空しく悲憤異境の鬼と化せし者楡林関係八十九名閻家関係二百六十一名にのぼり今尚生死不明の者合せて百六十八名に及ぶ 嗚呼痛恨盡くるなく悲惨極まれりというべし 我等こゝに故郷に迷魂を招きその冥福を祈り永く両村開拓団の偉業を後世に傳えんためこの一碑を建立すという
概略、開拓団は五族協和・王道楽土の理念に基づくもので、団員は苦楽を倶にし力を協せ営々として荒野を拓いた。ところがソ連軍の不法侵入により逃避行を強いられ、多くの犠牲者を出した、と刻まれている。
事実はどうだったか。
開拓団最寄の閻家駅に12日、避難列車が到着したのだが、団長のH氏が「皇軍はソ連軍に負けない」との考えから、避難命令を握りつぶしたため、中川村開拓団員は避難することができなかった。その後、13日にも最終避難列車が閻家駅に来たにもかかわらず、H団長が刀を抜いて「逃げる奴は切る」と脅したため、避難の機会を逃すことになった。
飢えと襲撃により多大な犠牲を出しつつ、難民収容所にたどり着くと、H団長は、救援を依頼するのに資金が必要だと称して団員から有り金を徴収し、そのまま姿をくらました。お金を調達するために娘を売った人もいたにも関わらず。
最後の開拓団関係者が帰国できたのは、昭和50年代だったが、一番早く帰国したのは、H団長だった。
偽りに満ちたこの招魂碑を撰文したのは、県立浦和高等学校の元校長・木村泰夫氏である。
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