
鷲子山上神社へ。
駐車場からだとお参りだけになるので、登山口から歩いた。
登山道には見るべきものなし。
日曜日のせいか、山上神社はそこそこ賑わっていた。

鷲子山上神社へ。
駐車場からだとお参りだけになるので、登山口から歩いた。
登山道には見るべきものなし。
日曜日のせいか、山上神社はそこそこ賑わっていた。

アメダスで14時の気温が37.9度。ありえない。
エアコンなしで、自分がよく死なずに生きてると感心する。
畑仕事少々で、退散。
この暑さでは、種をまいても枯れてしまう。
自宅で満州移民について書き物。
写真は、荒川村の若御子神社。
慶長五年の造営という。
満州移民の先遣隊が渡満するとき、ここで安全を祈願した。

午前中は身体休め。
午後に農作業。
ねぎ・玉ねぎ・大根・のらぼうなど予定地を耕うん。
写真は、荒川村の即道神社。
しばらくぶりに行ってみた。
日本共産党が、参政党の街宣活動を妨害するために、大音量マイクで抗議したり、警察の規制線を突破して宣伝カーに突撃したり、雑踏の中でいきなり発煙筒まがいのものを焚くなど、実力行使に及んでいる。
参政党の神谷党首は、今のところ、自由な言論は保障されるべきだと、原則的・紳士的な対応だ。
これらの実力行使に、党の最高幹部がお墨付きを与えている。
妨害活動に対し、参政党がいつまでも黙っているとは思えない。
参政党と共産党の武力衝突があるかもしれない。
さきに挑発行為を行ったのが共産党だということを覚えておく必要があろう。

自宅欅の枝下ろし終わり。
三日間、チェンソーを振っていたので、全身筋肉痛。
でも終わってよかった。
現状、薪棚はいっぱいなので、玉切った枝は、積み上げて雨除けを掛けておく外なし。
それもひと仕事だ。

矢尾商店は秩父市内の老舗酒造業者で、いまでも市内唯一の百貨店を頑張って経営しておられる。18世紀半ば以来、近江の日野から訪れて以来、300年近く、正直・誠実をモットーとして来たお店だ。秩父事件のときにも、事件参加者がお店を訪れているのだが、番頭さんがそのようすをていねいに記録している。以下は、営業日誌の意訳。
--------------------------------------
一一月二日昼過ぎに、暴徒が訪れた。二、三名の者が乱入してきて、「刀を貸せ」と言う。刀は持ってないので、ないと言ったら、「これだけの豪家でありながら刀の二本や三本持ってないわけがない」と言い張り、失礼にも土足のままで帳場へ上がり、あちこち探したが一本もないので、「どこかに隠したんだだろう。早く出さなきゃあとで困るぞ」と脅迫するので、困り果てて、「昨日警察署から貸してくれと言われたので、貸してしまった」と言うと、暴徒たちは刀に手をかけて、「それじゃ、当家は警察の味方をするんだな。ふざけた野郎だ。殺してやる」と脅迫するので、「いや、警察の味方というわけではない。警察から強いて貸してくれと言われたので、貸したまで」と答えると、「それじゃ、総理に報告して処分を決める」と言い、さらに「質草を見せろ」と言われた。
やむなく蔵に案内し、刀を見せると、リーダーらしき一人が質物の刀のうち程度のよい四本を選び出した。すると蔵の周囲に集まっていたうち数名が、「自分にも一腰くれ」とねだってきたが、幹事らしき人品のよい者(井上伝蔵)が「刀のない者には、いずれ本部から渡すので、この四本はいずれ本部から改めて借用に来ます」と言うので、刀は帳場にしまっておいた。
相馬義広という使者が来て、「当店にて昼食の兵糧を用意してほしい」と総理からの伝言をいんぎんに伝えてきたので、迷惑ではあったが、焼酎釜二釜、飯炊き釜一釜の炊き出しをした。
午後一時過ぎ、近戸の柴岡熊吉と横瀬村苅米の千島周作が、帯刀して幹事格として訪れ、「このたび、世直しをして政治を改革するために、このように大勢の人民を集めた。そんなわけなので、当店には兵食の炊き出しをよろしくお願いしたい。さて、高利貸営業者のように不正をなす者の家でなければ、壊したり焼いたりすることは決してしない。また高利貸の家を焼いたとしても、その隣家にはいささかの損害も与えないので、安心してほしい。また不法なことを言ってきたり、乱暴するような者がいたら、役所に届けてくれれば、ただちに成敗する。そんなわけなので、こちらのお店では、安心して、平常通りに開店して、商業を十分にしてほしい」と丁重に言ってきた。他の役人たちも、同様のことを言ってきたので、あまり気が進まなかったが、店を開けて営業した。
午後八時ごろ、幹事らしき二名が帳場へ来て、晩ごはんを求めたので、御膳を出してやったところ、幹事柴岡熊吉が通りかかり、これを見て、「両君にはわが党の規約をわきまえていないようだ。それにわらじを履いたままで座敷に上がり食事をするとは、はなはだ不都合だ」と説教したので、二名の者はコソコソと隅で食べて出ていった。
午後九時過ぎに炊き出しがようやく終わり、一休みしていたところ、幹事から「本日はもはや兵食もよろしいので、当店では戸を閉じて、老人・子供は休ませてくだされ。戸外はわれわれが警護するのでご心配なく」と、何度も言ってきたので、午後一一時ころ家内の者と交代して就寝した。
--------------------------------------
この業務日誌に出てくる柴岡熊吉は、秩父市近戸町の人で、秩父困民党の会計副長。総理・田代栄助の最側近である。敗北後逮捕され、凄惨な拷問を受けて獄死した。熱して溶けた鉛を飲ませられたという口伝がある。墓石もなく、近戸にある小さな自然石が墓石の代わりだという。若かりしころは草相撲の力士で、かれが千手観音堂に奉納した相撲四十八手の天井絵は、今も鮮やかに残っている。
老舗の番頭さんが書きとめておいてくれた、熊吉の張りきったようすが目に見えるようで、研究者としても、誇らしい。

秩父事件の研究会で、秩父市へ。
まずまず充実した内容だった。
会が始まる前に、また荒川村へ。
久しぶりに船川の千手観音に立ち寄り。
彫刻は超精細というわけではないが、物語性があって面白く、建物もお堂というより、神社に近い感じだ。
お堂前に築かれた土俵だが、以前はこんなにしっかり作ってあったかどうか・・。
こういう史跡はときどき訪れたい。

人間ドックの結果到来。
重大な問題はなかったが、多少の問題ある数字がけっこう増えた。
身体のメンテナンスにもう少し気を使ったほうがいいかも。
本日のアメダスで最高気温が35.7度。
身体にもダメージになる。
半Runの日。
写真は、筑波山のブナ。

筑波山はこれで三度目。
今回は公共交通機関利用。
下調べ不十分で、乗り継ぎはあまりうまくいかなかった。
筑波山神社からつつじヶ丘のゴンドラ乗り場までの道は、ゆるい登りだが、吸血ブヨがひしめき合っていた。
汗でビショビショになったタオルを振り回しながらここを通過し、頑張って女体山まで登った。
タオルを絞りながらここまで登りきればもう十分なので、下りは乗り物(ケーブルカー)利用。

朝から草むしりに出かけたのだが、お昼すぎには危険を感じる暑さになった。
500mlのペット飲料を一本飲みきったら終わりにするというリミットを自分で設けているのだが、すぐに一本飲みきった。
帰宅後、薪作り少々。
白菜の種まき。
白菜や大根の生育期は秋なのだが、このところ、秋の期間が非常に短くなって、夏からすぐに冬になる感じ。
そうすると、種まきのタイミングがとても難しい。
ブロッコリーは芽が出たけれど、暑さに負けて枯れた。
茄子がちっともバテずに頑張ってるので、こっちも頑張って食べる。
冷たくして食べるとそこそこいける。

翁は明治三十年五月十六日秩父郡中川村に生まれ、少年時代より資性誠実・志操堅固であり、その生涯は真心を以て一貫されていた。大正二年四月一日、同村役場に書紀として奉職以来、昭和十三年四月十三日まで二十六年の間、常務方面委員・社会教育委員・少年教護委員・埼玉県報徳会講師・在郷軍人分会長・青年訓練所首席指導員・消防組相談役・青年会顧問等を歴任し、村全般の指導者となっていたが、当時の国策による大陸経営のため満州国への分村計画が奨められるや率先して満州中川村開拓団を組織して団長となり、昭和十三年五月十五日より同二十年八月まで七年間大陸開拓に尽力され、三江省々政議員・樺川県々政議員・満州国協和会の省及び県の協議員等に選ばれ活躍された。同年八月の敗戦以後、日本への引揚に際しては、自身の家族を失い、九死一生の極限的苦労重ねながら同法救出に力を尽し、帰国と同時に引揚者のために寝食を忘れて就職と住居の安定に奔走し、更に傷病軍人の相談相手として戦争犠牲者の救援を続け、秩父市引揚者同友会長・埼玉県引揚者連合会常任理事・同会秩父市支部長・埼玉県遺族相談員・秩父市社会福祉協議会評議員・同会老人福祉委員・秩父市遺族会理事・日野田町長寿クラブ会長党の役職を逝去に至るまで続け、社会福祉のために努められた。以上の事績に対し、古くは大正二年模範青年として秩父郡長より表彰されたのを始め、文部・厚生・外務の各大臣、埼玉県知事その他各種関係団体より表彰されること十数回に及んでいる。
翁の行跡の詳細を挙げようとすれば万言を費すとも尽し難いので、今是に略記して遺徳を偲ぶよすがとする。
昭和六十一年十一月吉日 野坂寺十六世 閑栖松巌晋祐 謹誌
中川村開拓団団長の事績碑。
権力・資力の大きいものや声の大きいものによって、歴史が書かれるとすれば、誰かがそれに抗わなければ、悲しい思いをしたものは、永遠の沈黙を強いられる。
それはしかし、人の道に反するのではないか。

武州日野駅の裏・浅間神社の境内の一画に、開拓団招魂碑がある。碑文はそこそこ長いもので、副碑には、犠牲者の氏名が刻まれている。
五族協和・王道楽土の理想に燃ゆる満州開拓団として旧中川村白川村は昭和十四年以来夫々分村計画を樹てゝ渡満旧中川村は閻家を中心に百三十五世帯五百九十三名旧白川村は楡林に四十世帯二百一名いづれも苦楽を倶にし力を協せ営々として荒野を拓き施設を急ぐ 昭和二十年八月突如ソ連軍の不法侵入に戦雲俄かに急を告げ十三日楡林開拓団の青壮年は悉く現地に応召となり老幼婦女は断腸の思いに積年の蓄財を棄て言語に絶する苦難の山道を相抱き相慰めて避難すること五十余日辛くも新京に辿り着く 閻家の中川開拓団亦暴戻なソ連軍匪賊に退路を遮断され相次ぐ非道の襲撃に犠牲者を出すこと前後実に百六十三名指導者既にソ連軍に拉致され残る者極度の困憊と悪疫に苦しみつゝ山野を彷徨すること十八日漸く方正県に難を避く かくて楽土建設の雄図空しく悲憤異境の鬼と化せし者楡林関係八十九名閻家関係二百六十一名にのぼり今尚生死不明の者合せて百六十八名に及ぶ 嗚呼痛恨盡くるなく悲惨極まれりというべし 我等こゝに故郷に迷魂を招きその冥福を祈り永く両村開拓団の偉業を後世に傳えんためこの一碑を建立すという
概略、開拓団は五族協和・王道楽土の理念に基づくもので、団員は苦楽を倶にし力を協せ営々として荒野を拓いた。ところがソ連軍の不法侵入により逃避行を強いられ、多くの犠牲者を出した、と刻まれている。
事実はどうだったか。
開拓団最寄の閻家駅に12日、避難列車が到着したのだが、団長のH氏が「皇軍はソ連軍に負けない」との考えから、避難命令を握りつぶしたため、中川村開拓団員は避難することができなかった。その後、13日にも最終避難列車が閻家駅に来たにもかかわらず、H団長が刀を抜いて「逃げる奴は切る」と脅したため、避難の機会を逃すことになった。
飢えと襲撃により多大な犠牲を出しつつ、難民収容所にたどり着くと、H団長は、救援を依頼するのに資金が必要だと称して団員から有り金を徴収し、そのまま姿をくらました。お金を調達するために娘を売った人もいたにも関わらず。
最後の開拓団関係者が帰国できたのは、昭和50年代だったが、一番早く帰国したのは、H団長だった。
偽りに満ちたこの招魂碑を撰文したのは、県立浦和高等学校の元校長・木村泰夫氏である。

朝から畑仕事。
春いんげんの片づけ。
途中まで。
草むしり。
昼から荒川村の史跡めぐり。
ずいぶん以前に見たところばかりだが、けっこう忘れてしまってるので、思い立って歩き直した。(徒歩でなく車で見て回った)
清雲寺境内にある拓霊芳魂塔。
これは、御花畑の札所13番前にあったのが、30年ほど前にこちらへ移転した。
拓霊とは、満蒙開拓団として秩父から満州に赴き、命を落とした人々のことである。
満蒙開拓団は、満州の荒野を開拓したわけではなかった。
開拓団長だったH氏は、先遣隊からのリポートで「こちらは来て見れば文字通りの楽天地で何一つ心配することはなく、入植のその日から本当に一団一家、家族としての安心立命の生活です。肥沃の耕地が豊富で収入の道が際限ないから女子供がいくら来ても食う心配など少しもないのです」と述べていた。
「文字通りの楽天地」とは、満州現地の人々が営々と築いてきた農地だった。それをわずかな補償で奪い取り、日本人のものにするのが「開拓」だったのだから、「入植のその日から本当に一団一家、家族としての安心立命の生活」「肥沃の耕地が豊富で収入の道が際限ない」のも当然だった。
1945年8月9日を境に、開拓団に参加した人々は一転して、この世の地獄に突き落とされた。
この日の傍らに建つ副脾には、「戦争の空しさ悲惨さを嘆ずる・・」と、戦争を否定する言葉が刻まれている。
満州で暮らした一般の日本人にとっての戦争は、いつ始まったのだろう。
貧しかった秩父・荒川村(当時は中川村)から希望を抱いて満州に渡り、「肥沃の耕地」で充実した毎日を送っていたとき、自分たちがすでに地獄への道を歩んでいることに気づいた人はたぶん、ひとりもいなかっただろう。
一昨日の戦没者追悼式における、石破首相の式辞を聞いていて、もっとも新鮮だったのは、「反省」という言葉より、そのすぐ前のフレーズ「進む道を二度と間違えない」だった。このフレーズのすぐあとに、「あの戦争の反省と教訓」という言葉が続いている。
いろいろなことを論じる人がいる。事実でない言辞は論外としても、「アメリカ・イギリスとの資源力の差を考えれば、あの戦争は無謀だった」とか「昭和二十年二月に、近衛元首相に終戦を提案されたとき、昭和天皇がそれを受け入れていれば、東京大空襲・大阪大空襲は起こらず、沖縄戦は行われず、広島・長崎への原爆投下もなく、ソ連の対日参戦もなかった。昭和天皇の判断ミスが、多大な犠牲を生んだ」というような論は、それ自体間違っているわけではない。
しかし、場面場面におけるそれらのミスより致命的だったのは、近代日本の進んだ道、すなわち、東アジア・東南アジアを侵略することによって国内矛盾の解決を図り、国家の繁栄をめざそうとした近代日本の「道」だった。石破さんがそこまで考えてこの言葉を使ったかどうかはわからない。少なくともおれは、彼のこの言葉を心でしっかり受け止めたい。

消費期限がとっくに切れてるので、熊スプレーを買い替えた。
熊とトラブったとき、これがあれば安心というようなものではない。
なのに、けっこう高価で、買うかどうか迷うし、体力がなく荷物を軽くしたいので、持っていくのもためらわれる。
しかし、熊とトラブったときに、これも持ってないのでは、なすすべがない。
熊に対し向かい風だと使えないし、電光石火で襲いかかってくる熊が十分接近するまで待ち、鼻先に引っ掛けてやらねば効果がない。
だから持っていても、使えるかどうかさえ、おぼつかない。
知床でヒグマに襲われた方もこれをもっておられた。
一部のメディアは、「効果がなかった」と報道しているが、そうではなく、被害者は、効果的に使うことができなかったのだろう。
今年、隣家に熊が来たとき、念の為しばらくスプレーを枕元において寝たが、結局使わなかった。
こういうのは、使わないに越したことはない。

秋野菜予定地の耕うん続き。
春いんげんのヤグラ解体。途中まで。
キャンディランタンはどんどん落果する。とっくに峠を越えてるので、空ザヤがほとんどだが、中には実が入ってるのもある。
まだしばらく収穫できそうだが、空ザヤと分別するのが面倒だ。
大角豆はそろそろ終了。
実が入っていても、カビてるのが多い。
ブロッコリー・のらぼうの種まき。
秋野菜の準備が始まる。
写真は、新湯富士の大ミズナラ。
針葉樹林帯で孤軍奮闘していた。

雨がやんで、畑仕事を再開。
人参の種まき。
大根等予定地の耕うん。
草むしり。
数日の間、かなり涼しかったのだが、週明けからまた、地獄の暑さが復活する。
水分補給は西瓜で。

龍仙山に登れば、志摩半島のリアス海岸を眺めることができるという情報を得たのだが、あまりにも遠すぎて、出かける気にならないでいたのだが、意を決して、2024年末に登ってみた。
ほぼずっとみかん畑の中の舗装道路の登りなのだが、山頂に至れば、うわさ通りのすごい景観が得られた。
自然地理の授業を担当していたのはこの前年までだったので、この景色を生徒たちに見せることができなくて残念だった。
周回コースを歩いたので、山頂からはずっと、照葉樹林を登降した。
こちらはリアス海岸の景観以上にエキサイティングで、言葉のないほど立派な照葉樹原生林を堪能することができた。
樹林帯が切れた、ちょっとした陽だまりにクチナシ群落。
花はとっくに終わり、実ができていた。関東以北で、自生のクチナシを見ることはないので珍しく、実を少々摘んで、帰宅後、酒に漬けた。
半年経って、エキスがほぼ滲出したところで、実を引き上げて、味見。
色は紅花酒に似た濃琥珀色。強い薬臭があって、不快とまではいかないが、美味ではない。
薬効はイロイロあるらしいので、作っただけは飲むとするか・・。

今日も、大角豆摘みと大角豆ごなし。
大角豆も峠を越えた感じ。
人参の種まき。
ここまで三度まいたが、芽が出ない。
この時期に発芽させないと、秋に人参が食べられない。
なんとか発芽してほしい。
Runの日。
写真は、新湯富士の大ネズコ。

昨日寒冷前線が通って通り雨が降り、朝は肌寒いくらいなのだが、陽が出るとそこそこ暑い。
大角豆摘みと大角豆ごなし。
カラスがピーナツを食い荒らし始めたので、網掛け。
香美町の山廃・但州。
芳醇きわまる美酒。
好みの系統ではないが、間違いなくいい酒。

朝から人間ドック。
何ごとも経験と思って胃の内視鏡検査にチャレンジしたが、たいそう苦しかった。
午後は身体休め。
写真は、新湯富士で見たヒバ大木。
南面はおおむねスギ・カラマツの植林と雑多な雑木林だが、山頂付近は、ネズコとヒバを中心とする原生林だった。
津軽ほどの規模ではないが、塩原周辺にはまとまったヒバ林がある。

昨日は、群馬県伊勢崎市で最高気温の新記録が出たと報じられた。
午後に伊勢崎を通ったときには、車載の温度計は40度だった。
伊勢崎を過ぎて高崎に入ると、44度になった。
この温度は初めて見た。
クルマにエアコンを入れてたのだが、窓ガラスからの熱い放射熱で、火災現場の横を走ってる感じだった。
スーパーに立ち寄って車から降りたら、何もせずただ卵を置いとくだけでゆで卵ができそうな感じだった。
秩父は39度と、群馬ほどではなかった。
今日も、畑に長居したくない暑さだったので、大角豆摘み少々と潅水のみ。
午後に夕立予報だったのだが、空振り。
家で大角豆ごなし。
Runの日。

塩原温泉・新湯富士へ。
ヌマトラノオに会いに。個体数はあまり多くないが、咲き始めたところ。

自動車のメンテナンス。
大角豆摘み。
潅水少々。
写真は、ゴマダラチョウ。
軽トラの上で夏バテしていた。
ツクツクボウシ初鳴き。

朝から農作業。
今日も草むしりと大角豆摘み。
午後にオンライン会議。
大角豆こなし。
Runの日。
写真は、男抱山で見たオナガアゲハ。
ピンクのクサギ(これはこれで珍しい)で吸蜜していたが、さすがに暑いらしく、半日陰で休憩していた。

大量の草むしり。
大角豆摘み。
過日、トリオレの三度目のソール交換。
池袋秀山荘がなくなってからみなし子状態だったのだが、栃木県某市のアウトドアショップで修理してもらえた。感謝。
自宅からショップまで遠いのだが、低山歩きと組み合わせる。
ハードな登山にも付き合わせた靴だ。厳しい登山にはもう、行けないと思うが、大事に使いたい。