川口さんを虐殺した早大・一文自治会の副委員長は、大岩圭之助という人だった。
大岩さんは、たまたまその日登校しておらず、虐殺の現場にいなかったため立件されなかったと思われる。
一文自治会の執行委員のほとんどは川口さん虐殺の実行犯として刑事処分を受け、また大学からも処分されたので、一文自治会執行委員会は事実上、存在し得なくなった。
ところが、新たに選ばれた臨時執行委員会が内部対立により機能を停止し(内ゲバではない)、大学当局の後押しにより革マル派が復活する中で、実際には存在しない一文自治会の委員長代行を名乗っていたのが、大岩さんだった。
ウィキペディアには「1972年、早稲田大学文学部入学、同年冬退学」とあるが、1972年冬に退学したのなら、その後もずっと委員長代行でありつづけられるわけがない。「同年冬退学」はおそらく、虚偽だと思われる。
大岩さんは副委員長に選ばれはしたが、川口さんの事件後リコールされ、自治会役員としての正当性を失っていたにも関わらず、その後も委員長代行を名乗り、「学生大会」を招集したりストライキを提起するなど、一文における革マル派の「顔」であり続けた。
だからおれにとって、大岩圭之助という名前は、忘れようがない。
肥田さんの『彼は早稲田で死んだ』で、その大岩さんが、晦渋ながら当時を語っている。
大岩さんはその後渡米し、帰国後、辻信一という変名で明治学院大学の教授となり、定年退職されたが今もご健在らしい。
専門は人類学で、著書は多岐にわたり、スローライフを提唱するとともに、環境アクティビストとして反原発運動にも関わっておられるという。
肥田さんの本でご本人が語っておられるのだが、大岩さんにとって革マル派活動家としての日々は、一時期ハマっていたスポーツかファッションのようなものだったという。
大岩さんにとっては、そうだったかも知れない。
しかし、川口さんは殺されたし、癒えない傷を負ったり、アルバイトができなくなって経済的に破綻してするなどして退学に追い込まれた学生が何人いるか、今も調べられていない。
革マル派によって登校を阻まれ、彼らの暴力によって傷ついた第二文学部の山村政明さんが、1970年10月6日に穴八幡の境内で抗議の焼身自殺を遂げられたことは、どれだけ記憶されているだろうか。
おれも苦学生だったから、それらの先輩・学友と紙一重だ。
そのことに対しどう向き合おうとしているのか、、大岩さん(辻さん)はいっさい語らない。
この映画を撮るに際し、彼に何らかのアプローチがなかったはずはない。
辻信一さんは、大岩圭之助だった過去から逃げ回っているのだろう。
ウィキペディアには、本名も革マル派に所属していたことも、すべて消されてある。
人としての根幹を隠そうとする人物が、学問の世界で何らかのことを述べたとしても、おれは信用しない。
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