
天気はよくないが、雨はあがったので、農作業少々。
ミディトマトの植えつけ。
ミディトマトはこれで終了。
大角豆の支柱の補強。
草むしり。
写真は、茹でたユキザサ。芽出しの状態はバイケイソウに似ている。

天気はよくないが、雨はあがったので、農作業少々。
ミディトマトの植えつけ。
ミディトマトはこれで終了。
大角豆の支柱の補強。
草むしり。
写真は、茹でたユキザサ。芽出しの状態はバイケイソウに似ている。
川口さんを虐殺した早大・一文自治会の副委員長は、大岩圭之助という人だった。
大岩さんは、たまたまその日登校しておらず、虐殺の現場にいなかったため立件されなかったと思われる。
一文自治会の執行委員のほとんどは川口さん虐殺の実行犯として刑事処分を受け、また大学からも処分されたので、一文自治会執行委員会は事実上、存在し得なくなった。
ところが、新たに選ばれた臨時執行委員会が内部対立により機能を停止し(内ゲバではない)、大学当局の後押しにより革マル派が復活する中で、実際には存在しない一文自治会の委員長代行を名乗っていたのが、大岩さんだった。
ウィキペディアには「1972年、早稲田大学文学部入学、同年冬退学」とあるが、1972年冬に退学したのなら、その後もずっと委員長代行でありつづけられるわけがない。「同年冬退学」はおそらく、虚偽だと思われる。
大岩さんは副委員長に選ばれはしたが、川口さんの事件後リコールされ、自治会役員としての正当性を失っていたにも関わらず、その後も委員長代行を名乗り、「学生大会」を招集したりストライキを提起するなど、一文における革マル派の「顔」であり続けた。
だからおれにとって、大岩圭之助という名前は、忘れようがない。
肥田さんの『彼は早稲田で死んだ』で、その大岩さんが、晦渋ながら当時を語っている。
大岩さんはその後渡米し、帰国後、辻信一という変名で明治学院大学の教授となり、定年退職されたが今もご健在らしい。
専門は人類学で、著書は多岐にわたり、スローライフを提唱するとともに、環境アクティビストとして反原発運動にも関わっておられるという。
肥田さんの本でご本人が語っておられるのだが、大岩さんにとって革マル派活動家としての日々は、一時期ハマっていたスポーツかファッションのようなものだったという。
大岩さんにとっては、そうだったかも知れない。
しかし、川口さんは殺されたし、癒えない傷を負ったり、アルバイトができなくなって経済的に破綻してするなどして退学に追い込まれた学生が何人いるか、今も調べられていない。
革マル派によって登校を阻まれ、彼らの暴力によって傷ついた第二文学部の山村政明さんが、1970年10月6日に穴八幡の境内で抗議の焼身自殺を遂げられたことは、どれだけ記憶されているだろうか。
おれも苦学生だったから、それらの先輩・学友と紙一重だ。
そのことに対しどう向き合おうとしているのか、、大岩さん(辻さん)はいっさい語らない。
この映画を撮るに際し、彼に何らかのアプローチがなかったはずはない。
辻信一さんは、大岩圭之助だった過去から逃げ回っているのだろう。
ウィキペディアには、本名も革マル派に所属していたことも、すべて消されてある。
人としての根幹を隠そうとする人物が、学問の世界で何らかのことを述べたとしても、おれは信用しない。

授業中とあって、はなはだ気が引けたのだが、もう一つ見ておきたいところがあった。
校舎の配置はおれの在学当時とさほど変わっていなかった。
ただ、古い木造校舎は建て替えられて、新しくなっていた。
その出来事があったのは木造校舎でなく、そのころからコンクリート造りの建物だった。
何について自己批判しろと言われたのか、肝心なことを忘れてしまったが、廊下にいたら、自治会役員を名乗る革マル派によって両腕をねじ上げられて羽交い締めにされ、自己批判しろと迫られたことがあった。
映画の中の川口さんと同じように、自己批判を拒否したら、いきなりパンチを食らった。
止めに入ろうとした二つ上の先輩は、思い切り蹴飛ばされた。
映画に川口さんを蹴るシーンはなかったと思うが、革マル派は人を蹴るのだ。
危険な場面だったと思うが、名前も知らない上級生らしき学生が「暴力はやめろ !」と言って、間に割って入ってくれ、その場から逃げることができた。
いま思えば、その方には本当に感謝しなければならない。
その当時は照明も暗く、床や壁は汚れていたから、見た目は全然ちがっていた。50年近くたって、内装はきれいになり、照明が明るくなってすっかり変わったが、その出来事があった場所は、紛れもなくここだった。

渋谷から、その足で高田馬場へ。東西線に乗ってふらふらと早稲田大学へ。
川口さんが殺された127・128教室(ずっと自治会が占拠していて授業は行われていなかった)には、行ったことがなかった。
川口さん事件のあと、大学当局の後押しもあって革マル派は復権し、暴力支配が復活していた。
革マル派に批判的と目される教授の授業に際しては、自治会役員を僭称する学生(?)が教壇を占拠して妨害し、授業をやらせなかった。
共産党員ではないかと言われていたマルクス主義哲学のK先生のゼミでは前期(4月から7月まで)の間、教授も学生も教室に集まっているにも関わらず、先生の話に接することは一度もできず、夏休みに菅平で行われたゼミ合宿で初めて、先生の授業を聞くことができた。
何があった日か忘れたが、革マル派が興奮していてキャンパスに入れなかった時、その日まさにその先生の授業を受けようと思っていた実存主義哲学のI先生がそばにおられて、「今日は授業どころじゃないなぁ。お茶でも飲みに行こうか」とおっしゃった。
他の学友たちが教室で待ってるかも知れないのに、授業に出ないで先生と喫茶店でお茶飲むのは気が引けたが、先生からいろんな話を聞くことができた。
自治会役員と称して授業妨害しているのは一文の学生でなく他学部の学生で、もちろん自治会の役員ではないこと、ひょっとすると学生でさえないかも知れないということなどをうかがった。
そんな状態だったから、おれは127・128教室には、近づくこともできなかった。
場所はわかってるが、そこに近づくのは、今でも怖い。
革マル派はもういないし、いたとしても、もうすぐ古稀を迎えるおれの顔を覚えてるやつはいないだろう。
追っかけられたとしても、駆けっこならまだ少し自信がある。
先ほど見た映画の舞台となった教室に行ってみると、壁は全面ガラスでとても明るく、ごく普通に授業が行われていた。
当たり前だが、教室の前を通るのははばかられるので、全体をちょっと見るにとどめたが、そこには、1972年の川口さん事件を記憶させる何もなかった。
大学は今、あの事件をどう受け止めているのだろう。
大学当局が、あれは忘却すべき事件だと位置づけているのなら、許されることではない。
もっとも、屈託なく勉強している学生たちにとっては、何も関係ない。
ちょっと羨ましいけれど、グッドラック ! 学生たち。
映画を見に、渋谷へ。
代島治彦『ゲバルトの杜』。
1972年に早稲田大学第一文学部(一文)でおきた、革マル派自治会役員による、川口大三郎さん(当時二年生)虐殺事件を掘り下げようとした作品。
肥田毅さんの『彼は早稲田で死んだ』を原案としている。
学生運動を社会現象として捉えようとする軽薄な作品なら、見る価値はないと思っていたが、肥田さんの本はそのようなものではない。
彼は、革マル自治会がリコールされたあとで成立した一文臨時自治会の執行委員長として、運動のど真ん中にいた方である。
川口さんに対するリンチ場面が役者さんや公募により選ばれた学生さんによって再現されていたが、とても見ていられなかった。
リンチを行った一文自治会(革マル派)の田中委員長が川口さん追悼集会で自分たちの行為を懸命に正当化する映像を初めて見た。よくこんな映像が残っていたものと思う。
学生の通報により、虐殺当日、現場である127・128番教室に出向きなから、リンチの真っ最中であったにも関わらず「異常なし」と判断した学生担当教授が「自分たちは異常なしと判断したのだから自分たちに責任はない」と居直る映像も初見。怒りがこみ上げる。
証言者として、川口さんのクラスメートなど、何人かの人々が登場する。
「証言」を聞いて憤りを感じた方が二人いた。
ひとりは佐藤優さんで、佐藤さんは「当時の革マル派にとって川口さんは中核派活動家に思えただろう」と述べられた。
他の多くの証言者が川口さんは中核派ではなかったと明言している(川口さんと接点があった中核派のもと活動家の方もそう言っている)のを、佐藤さんは否定されているわけではない。
当時の革マル派が、仲間を中核派に虐殺されたことに対する報復感情を募らせていたとしても、川口さんを殺したことを一ミリたりとも合理化できるものではない。
佐藤さんには、だからどうなんだよ、と言いたくなった。
もう一人の「証言」者は内田樹さんで、内田さんは「状況により、通常ありえないような非違行為や残虐行為を行う、人間の闇とでも言うべき側面がある」と述べられた。
内田さんは、川口さんを教室でリンチしたのは「人間の闇」だったといいたいのか。
佐藤さんも内田さんも、当時の早大一文とはなんの関係もない。世代もずれており、内田さんはひと世代年長で、佐藤さんはひと世代若い。
このお二人を起用した理由が理解できないが、どう見ても失敗だと思われた。
映画の後半は、革マル自治会を早大全学でリコールしたあと、新たな学生自治を建設しようとする闘いが、運動の分裂と革マル派の逆襲によって敗北していった状況についての証言である。
ここの構成は、とてもよくできていた。
肥田さんら、再建自治会の多くは非暴力による学生自治の再建を模索していた。
しかし、黒いヘルメットで防衛的に武装した学生たちは、自衛を含む一定の暴力的行動なしに革マル派を追放することは不可能だと考えていた。
二つのグループにそれぞれ所属していた方々が、当時の自分の立ち位置について、証言されていた。
それぞれ、貴重な証言だと受け止めた。
学生運動も、広義の社会運動の一つである。
社会運動は、一致点に基づく共同行動が原則であり、理念の一致は求めるべきでない。
さまざまな市民運動・平和運動・組合運動もしかりである。
政党やセクトの引き回しにより、日本の社会運動がどれだけ分裂・社会的孤立にに追い込まれたか。
近代社会運動史は、分裂の歴史だとも言える。
「連帯を求めて孤立を恐れず」という有名な落書きがある。
孤立を恐れないのはけっこうだが、それが独善でないか、自分の胸に手を当てて、よく考えてみるべきだ。
上映が終わってから周りを見回すと、観客はほとんどが高齢者で、しかもほぼ自分と同世代の方々だった。
この中に多分、昔の知人がいるのだろうなと思いつつ、うつむきながら会場を出た。

終日、農作業。
草むしり。
きゅうりの支柱をミニからロングサイズへ交換。
ピーマンの支柱をミニからミディアムサイズへ交換。
大角豆に支柱立て。途中まで。
アスパラ苗に支柱立て。
毛無山の雪解けあとにふきの玉が出てたので摘んできた。
美味しい。(お酒が)

早朝に農作業。
ミディトマト苗の植えつけ。途中まで。
草むしり。
毛無山に登ってみると、魚沼の山が意外に近く見える。
飯山から回り込んできたので、ちょっと不思議。
駒ヶ岳と中ノ岳。

ちょっと早かったか。
北信(長野県)・野沢温泉の毛無山。

朝から農作業。
草むしり。
つくね芋の支柱立て。
中玉トマトの挿し木。
トマトは挿し木でいくらでも増やせるから、苗一本あれば足りる。
写真は今日もイブネ。御在所岳が近く見える。

書き物をしていて連日夜なべ仕事だったので、睡眠不足。
それでも、懸案の秩父事件関係イベントが終わって一息ついた。
イベント後、草むしりと小苗類に潅水したら、体力の限界を越えた。
写真は、イブネ。
アセビの新葉が展開すると、紅葉のように見える。

北信・飯山の大神楽山へ。
沢すじの雪も消えてきた。

終日、農作業。
いちごのランナーを切って植えつけ。
前の品種(ピュアベリー)は、夏過ぎくらいからランナーを出していたので苗の植えつけは秋以降で、12月になって植えたこともあったくらいだった。
今度の品種(とちおとめ)は、梅雨前のこの時期にランナーを出す。従って、苗作りは今から梅雨にかけてが中心になりそうだ。
いちごのうねにはマルチを張ってあるので、放置するとランナーが日焼けして枯れる。
苗取りは、ビニールポットに洗濯バサミで子株を固定し、発根したところで切る。
少なくとも60本くらいは、いい苗を植えたいものだ。

終日、農作業。
まず、草むしり。
雑草が気合を入れて伸び始めた。
スイートコーンの種まき。三次分6粒。
スイートコーンの種まきはこれで終わり。
大角豆の種まき(直播)。
大角豆を作るのは久しぶりだ。
四角豆の種まき(直播)。
バックアップとしてビニールポットにも播種。
つくね芋にかけてあった防草シートを外して支柱立て。途中まで。
写真は鈴鹿・クラシの風景。

午後から農作業。
きゅうりの支柱立て。
ピーマンのアンドン外し。
トマト・中玉トマトの挿し木。
今年のいちごは、植えた株数は去年並みだが、あまりいい苗ではなかった。
自分的には今ひとつなので、今年はもう少しいい苗を作りたい。

佐和山で、モンキアゲハが忙しく飛ぶ。
(おれ) みつなりさん。
(みつなり) おう、よくおわかりになられた。
(おれ) たしか京都のどこかでお休みではなかったんですか。
(みつなり) 蝶の姿になってな、あちこち飛び回っておるのよ。
(おれ) ここは景色がいいですね。
(みつなり) ああ、琵琶湖の手前に見えるのが信長さまのおられた安土の城じゃ。伊吹山の右が関ヶ原よ、ははは。
(おれ) さぞ悔しいでしょう。
(みつなり) 馬鹿をいうな。そちらの世とこちらの世は別世界じゃ。さすがに家康どのには含むところがなくもないが、道で会うたら挨拶くらいはいたす。哀れなのは秀秋よ。400年たつというのに、許してくだされというて、未だに泣き暮らしておる。いくさに負けたのは残念だが、致し方なかろう。それよりわしは、あのいくさで刑部どのという無二の友人を得た。思い出話が楽しいわい。
(おれ) コーヒー飲みます ?
(みつなり) そんな泥水みたいなものを飲んで、腹でもこわしたらなんとする。わしは遠慮する。
(おれ) 相変わらず、食べ物に気を使われてるんですね。さすが。

朝から農作業。
のらぼうあとを耕して、いちご苗の植えつけ準備。
草むしり。
午後は秩父の図書館で調べもの。
図書館は、ほんとにいいところだ。
高校・大学時代は図書館で勉強ばかりしていたが、面白そうな本がたくさんあって、目移りしてどうしようもない。
写真は、旧ムクゲ公園で見たイチモンジチョウ。

終日、農作業だが、昨夜、帰宅が遅かったので、スタートがやや遅れた。
のらぼうの片づけ。
今年もたくさん食った。ありがとう、のらぼう。
かぼちゃの芽出しが芳しくないので、種のまき直し。
玉ねぎはまだ熟していないが、じつは、熟す前の玉ねぎのほうが甘くて美味いのだ。
とろけるチーズと胡椒は購入品。
あるものばかり食ってる自分としては、これは贅沢。

今日も一日、農作業。
まくわ瓜小苗の植えつけ。
ピーマン苗の植えつけ。
ピーマンは今朝まで室内の衣装箱に入れて育てていたので、太陽にも風にもあたったことがない。
ちょっと心配だが、アンドンを掛けたし、明日は雨っぽいので、頑張ってくれることを期待。
生姜の植えつけ。
そら豆の剪定終わり。
これからしばらくそら豆の収穫期になる。
実をつけない細枝やモノにならない枝先など、不要な部分はすべて切り捨てる。
そら豆がよくできたので、けっこう大変だった。
雨が降り始めたのでそこまで。
写真は昨日、旧ムクゲ公園で見たウラギンヒョウモン。
ヒメウツギで吸蜜する新鮮な個体。
アカショウビンの鳴き声を聞いた。
梅雨が近づいている。

終日、農作業と森林作業。
山は初夏の風情で、シジュウカラ・センダイムシクイなど野鳥がさえずり、イチモンジチョウ・サカハチチョウ・ウラギンヒョウモンなど蝶が飛ぶ。
力仕事はもちろん苦労だが、街なかより森のほうがいくらか涼しい。
きゅうり苗の植えつけ。
西瓜苗の植えつけ。
そら豆の剪定。一部のみ。
そら豆ができ始まったので、不要な茎や芽先は切り捨てる。

箱根の滝めぐりコースで鷹巣山へ。
小涌谷に下山したら、登山鉄道が動いていた。
この前湯本に来たときはコロナ前だったが、台風による土石流で線路が流失し、復旧できる感じがしなかった。
湯本駅の三番線に電車は停まっていたが、待合室として利用されていた。
コロナのためこちらに来なくなって復旧したことも知らず、バスで帰るつもりでいた。
箱根登山鉄道は、ありえないような急カーブを曲がったり、急坂を登り下りしたり、スイッチバックで方向転換したり、かつての日本を思い出させるすごい技術のかたまりだ。
もうまったく気分よく下山できたので、湯本からロマンスカーにも乗ってしまった。

雨があがってから農作業。
トマト・四角豆予定地に、支柱ヤグラ建て。
面倒な仕事がまた一つ終わってよかった。
連日、ウドを食ってるんだが、ウドは皮をむいて食べる。
皮はお料理には使えないんだが、ウド皮だけでキンピラにすれば、食えないことはない。
とりあえず、イッパイ飲むにはこれで十分。

縦に長い前線が停滞して、雨が続く。
畑の作物にはけっこうなことだが、雑草にとっても恵みの雨となるから、やんだあとが怖い。
時間ができたので、溜まっていた書き物など。
なかなか進まない。
昨日は火曜日だったので、調べ物のために秩父の図書館に出かけたのだが、休館日だった。
図書館まで、自動車で往復50キロ近くあるから、徒労感が大きい。
今日の午前中、やや晴れ間が見えたので、気になっていた大野原の諏訪神社に行ってみた。
道路は通じているのだが、道幅が狭く、普通車の通行はきびしいので、畑に行きがてら軽トラで。
ここは室町後期の諏訪城址である。
規模は小さく、おおぜいが籠城できるスペースはなさそうだ。
何より本曲輪まで、一ミリも登る必要がない。
それでいて、防御性は極めて高い。
というのは、曲輪の西・北・東のいずれもが荒川と横瀬川の断崖によって、近づくこともできない。
南は平地だが、堀によって画されているから、ここからの侵入も簡単でない。
城主については諸説あるが、確たることはわからないとすべきだろう。
秩父事件のさなかだった1884年11月3日に皆野村から大野原に退くとき、田代栄助がここに陣地を構えよと指示したのは、この城趾ではなかったか。
史料には、その位置は下小川橋付近とあるが下小川橋と諏訪城址は300メートルほどしか離れていない。
城址の現場でいろいろ考えてみようと思っていたのだが、驟雨が来たので、写真だけ撮って退散。
思えば鉢形城を始めとして、荒川そのものが要害なのだ。

終日、農作業。
頑張ったおかげではかどった。
きゅうり小苗の植えつけ。途中まで。
アスパラ小苗の植えつけ。アスパラはこれで終わり。
そろそろ赤くなってきたいちごに網掛け。
三年目のとちおとめなんだが、去年と比べて実がえらく小さい。
肥料不足の可能性もあるが、植えた苗がよくなかったのが原因かもしれない。
早くもランナーがでているので、よい苗をたくさん作る必要がある。
じゃがいもの土寄せ完了。
今年植えたのは新しく開墾した場所なので、木の根や石ころがすこぶる多く、今ひとつモチベーションが上がらない。
ネギの土寄せも終わり。
冬に食えるネギはとても重要。
家で、ビニールポットにエンサイの種まき。
西瓜の鉢上げ。
写真は、武蔵五日市駅近くにある東町観音堂。
ここは五日市観能学校あと。
お堂は小さいし、敷地も広くないのだが、かつてはもっと大きかったのだろう。
ここで教えていたのが、千葉卓三郎だった。
千葉卓三郎は嘉永五(1852)年、仙台藩士の上に生まれ、戊辰戦争にも出た。
維新後上京して各種学問・宗教(キリスト教)を学び、明治10(1877)年ごろから秋川界隈で小学校教員に就く。
明治13(1880)年に五日市を訪れて、ここ観能学校に勤め始めた。
ほぼ同じころ、五日市学芸講談会を作って、同年代の若い人々と社会・政治についての学習会を始めた。このころまだ30歳にならない。
タクロン・チーバーと自称した。
翌1881年に五日市憲法を起草。
1883年に結核のため没。
お金もない。
名声もない。
彼女もいない(かどうか実は不明)。
何も残さずに死んでいったかに見えた卓三郎が残した私擬憲法が偶然発見されたのは、昭和43(1968)年だった。
第45条 日本国民は各自の自由権利を達すべし。他より妨害すべからず。かつ、国法これを保護すべし。
人は各自自由であり、権利の主体である。それを何ものも妨害してはならない。かつ法律はそれら(の権利及び自由)を保護しなければならない。
これこそ、日本人民が到達した思想的金字塔というべき文言だろう。

終日、農作業。
まずはボヤを玉切って焚き付け作り。
これがないと火をつけることができない。
畑に行って、いんげん豆のヤグラ建て。
面倒な仕事が一つ、片づいた。
オクラ苗にミニ支柱立て。
ブロッコリーの網掛けメンテ。
落花生の芽が出揃ったので、網外し。
去年はこれでほとんど苗を食われたんだが、野ネズミのしわざではないかと疑われるので、今年は毒餌をおいた。
じゃがいもの土寄せ。途中まで。
スナップエンドウができ始まった。
まだ残っているタケノコと一緒に煮た。

終日、秩父事件の史跡見学。
皆野町をずっと歩いていた。
歩くと必ず、何かの発見がある。
今日もそうだった。
早朝と日没前に急いで農作業。
大麦の食害対策を応急的に。
写真は、旧秩父往還・親鼻の渡し場の馬頭尊。
宝暦12年の銘あり。

朝から集落のお日待ち。
少し休んで、午後は集落の稲荷様の石段づくりの手伝い。
夕方、畑に行って大麦の防鳥糸張り準備の続き。
そろそろ食われ始めているので、早く糸を張らなければならないのだが、いろいろあって作業が進まない。
写真は、今熊神社登山道の途中にあった金剛の滝。
水量が乏しいため釜はショボいが、高さは15メートルほどあって、久々に美瀑を見た。

山歩きと街歩きを兼ねて、五日市へ。
連休中とは言え休日でないので、人出は少なく、いい日和だった。
朝の広徳寺はとても爽やかだった。

朝から大麦の防鳥糸張りの準備をしていたら雨が降ってきたので、畑仕事はお昼まで。
三波川の妹ヶ谷不動の縁日(「復活祭」と称されるイベント)。
ここにお参りに来たのは三度目だが、人影を見たのは今度が初めてだ。
始まるころには参拝客もまずまず集まってきた。
お参りしたのち、受付で学業成就を祈念した護摩木を奉納した。
お坊さん数名による法要開始後しばしで失礼したが、その後も、神楽・ロックバンドの演奏・怪談・ひょっとこ隊の演舞などが行われた模様。
寺院なのだから法要がメインなのだろうが、それだけではお客さんは来ない。
江戸や明治の時代であれば、花火や地芝居が付け祭りだった。
しかし、寺社の祭礼における付け祭りがどのようなものであるべきかに、決まった答えがあるわけではない。
大事なのは、境内が賑わうことなのである。
秩父では、宗教に関連する行事に無縁では暮らせない。
しかし、夜祭のように超メジャーなお祭りは別として、地域で無数に行われている祭事は、担い手不足を主たる原因として、かなり危機的だ。
山村の民として、妹ヶ谷不動の健闘を祈りたい。