記憶する高尾山
- いろはの森から -

【年月日】

2025年2月14日
【同行者】 単独
【タイム】

蛇滝口バス停(7:23)−慰霊碑(7:26)−日影沢橋(8:00)−高尾山(9:15-9:50)
−薬王院(10:07)−高尾山駅(10:22)

【地形図】 与瀬 八王子 ルート地図(マウスホイールで縮小・拡大可)

 とても眠く、電車の中でずっと眠っていたのに、乗り越さなかったのは上出来だった。

 高尾駅に着いてから小仏行きバスが出るまでやや時間があったので、高尾駅ホームで史跡めぐり。

高尾駅の弾痕
犠牲者の慰霊碑

 2番ホームの鉄柱の2本に、機銃掃射の弾痕が残されている。
 艦載機(空母から発着する軍用機)によるとも言われるが、南関東なら、1945年3月に占領された硫黄島から戦闘機が往復できたから、艦載機とは限らない。
 1センチほどもある鉄骨がぶち抜かれているから、かなりの威力で、人がこれを浴びたら間違いなく貫通銃創となる。

 蛇滝口でバスを降りた。
 この前ここから高尾山に登ったのは5年前で、世の中多くの人々が新型コロナの恐怖に怯え、「外出するべきでない」という行政のキャンペーンがあったり、地方に行くと、熊谷ナンバーの車が白眼視されるような、異常な世の中だった。
 春の盛りの高尾山もさすがに閑散としており、満開のヤマザクラをのんびり愛でることができたのだった。

 バス停からやや北に入ったところに、湯の花トンネル戦災犠牲者の慰霊碑がある。

 1945年8月5日のお昼時、P51戦闘機が高尾山上空から蛇滝のある行ノ沢へ急降下し、ここにさしかかった東京発長野行きの普通列車に襲いかかった。
 運転士は急ブレーキをかけ、機関車と一両目および二両目の半分がトンネルに入ったところで列車は停止。
 二両目後半から八両目までが、P51のえじきとなった。窓から乗り込むほどの混雑だった車内は、生き地獄と化し、50人ほどが亡くなった。

 遺体は近くの民家の庭に並べられたが、傷みが激しく、ウジが湧いて凄惨な状態だったため、やや上流の日影沢(現在のいろはの森コース下部)で焼かれたが、燃料が十分もらえず、燃やせた遺骨の一部だけ集めて、あとはそのまま埋めたという。

 慰霊碑の後ろに建てられた新しい石碑には、判明した犠牲者の名前が彫られている。
 もっとも若いのは、五歳だった中田智和くんだ。
 あと10日生きてれば、戦争は終わった。凶弾が今少し逸れていれば、いまでも存命だったかもしれない。

 彼以外にも、若い男女が何人も犠牲になっていた。おれはいま、勤めから解放され、申し訳ないことに、毎週のように山に登って遊んでいる。
 絶対に忘れませんからと心で呟いて、いろはの森登山口に向かった。

 日影沢沿いにしばらく林道を行く。
 やや広いスペースやキャンプ場があるから、湯の花トンネル犠牲者を荼毘に付したのは、そのどれかの広場だったのだろう。

湯の花トンネル
ヤマザクラ大木

 登山道には、各種樹木板が取りつけられていて、学びになる。
 「いろは」にこだわってるので、正式名称でないのもあるが、それは仕方ない。

 モミの大木が多くて、なかなかみごと。
 このコースにはコナラが多くないので、ナラ枯れの状況や対策については、不明。
 2年前の晩秋に登った稲荷山コースには、キクイムシ侵入木にマークしてあった。

 主稜線まですぐで、あとは広い道をのんびり歩くだけだった。
 ウィークデーの9時過ぎとあって、さすがの高尾山も、都会の雑踏のようではなかった。
 快晴無風。
 富士が真っ白で、いい感じ。

 ここで大休止。

富士
薬王院山門

 帰りは、こないだ同様、ケーブルカーに乗った。
 高尾山リフトというものに乗ったことがないのだが、ケーブルカーが好きなのと、乗るのが怖いのと、料金がケーブルカーと同じなので、これからもリフトに乗ることはないと思う。

 登りケーブルカーはぎっしり満員だったが、下りはガラガラで、高尾山に登るなら朝早くに限るということを学習した。