五日市憲法の町へ
- 今熊神社とその周辺 -

【年月日】

2024年5月2日
【同行者】 単独
【タイム】

武蔵五日市駅(10:04)−東町観音堂(10:10)−阿伎留神社(10:24-10:30)
−広徳寺(10:55-11:03)−金剛の滝(11:29)−今熊神社(12:17-12:59)
−稲荷神社(13:24)−秋川橋(14:31-14:47)−五日市郷土館(15:08-15:38)
−五日市憲法草案碑(15:47)−武蔵五日市駅(16:02)

【地形図】 五日市 拝島 ルート地図(マウスホイールで縮小・拡大可)

 武蔵五日市駅からスタート。

 駅からすぐに東町観音堂。
 建物はサイディング張りで新しいが、江戸初期の阿弥陀像が安置されているという。
 中は見えないが、手を合わせた。

東町観音堂
阿伎留神社

 ここは五日市観能学校あと。
 お堂は小さいし、敷地も広くないのだが、かつてはもっと大きかったのだろう。

 ここで教えていたのが、千葉卓三郎だった。

 千葉卓三郎は嘉永五(1852)年、仙台藩士の上に生まれ、戊辰戦争にも出た。
 維新後上京して各種学問・宗教(キリスト教)を学び、明治10(1877)年ごろから秋川界隈で小学校教員に就く。
 明治13(1880)年に五日市を訪れて、ここ観能学校に勤め始めた。

 ほぼ同じころ、五日市学芸講談会を作って、同年代の若い人々と社会・政治についての学習会を始めた。このころまだ30歳にならない。
 タクロン・チーバーと自称した。
 翌1881年に五日市憲法を起草。

 1883年に結核のため没。

 お金もない。
 名声もない。
 彼女もいない(かどうか実は不明)。
 何も残さずに死んでいったかに見えた卓三郎が残した私擬憲法が偶然発見されたのは、昭和43(1968)年だった。

第45条 日本国民は各自の自由権利を達すべし。他より妨害すべからず。かつ、国法これを保護すべし。

 人は各自自由であり、権利の主体である。それを何ものも妨害してはならない。かつ法律はそれら(の権利及び自由)を保護しなければならない。
 これこそ、日本人民が到達した思想的金字塔というべき文言である。

ウスバシロチョウ
広徳寺山門

 檜原街道を少し行って秋川方向に降りていくと、阿伎留神社。
 幼稚園の遠足らしく、賑やかだった。

 お参りののち、さらに下って秋川を渡り、少しで石造物が並ぶところ。
 このあたり、ウスバシロチョウが優雅に舞っていた。
 寒念仏供養塔や西国・東国・秩父巡礼の供養塔などが並んでいた。

 その先が広徳寺で、今熊神社登山口になる。
 まずは、広徳寺にお参り。

 総門は大きくないが、茅葺屋根の山門はちょっと言葉がないほど、豪華だった。
 その奥には、日本の銀杏の大木。
 講堂や庫裏と一体になっているように見える本堂も、茅葺き。

 このお寺を維持するのは、容易ではないだろう。

広徳寺山門
金剛の滝

 総門の前から後ろの丘への道に入る。
 道幅は広く、穏やかな雑木林の散歩コースだ。
 最高点あたりには尾根を行く道もあるから、朝飯前ののんびり歩きができそうだ。

 下りはスギ林で暗い感じ。
 下りきった谷を少し上流側へ行ったところが、金剛の滝だった。
 ごく短い距離だが河原歩きとなり、川を跳んで越えるところもあるから、増水時には通れない。

 最下段は1.5メートルほどで、遠くから見るとここしか見えないので、小さな滝なのかと思うが、さにあらず。
 大きく四段に分かれていて、全高15メートル以上はあるかと思える美瀑だった。

 登山道に戻ると、今熊山への登りにかかる。
 けっこうな急登で、足が上がらない。

 穏やかな遊歩道コースになるのだが、推奨されていない直登コースもあった。
 ここは直登コースへ。
 推奨されてはいないが、危険箇所や崩壊したところはなく、普通の登山道である。
 ただ傾斜はきつい。

 一般コースと再び合流するとやや穏やかになって、そのまま山頂へ。
 コンクリート造りの今熊神社に拝礼。
 境内には、各種石造物が並ぶ。

 一角におかれたベンチで大休止。
 南側が伐られていて、戸倉三山方面が見えた。

カラスかミヤマ
ササバギンラン

 下山は上川方面へ。
 こちらが表参道らしく、石段が整備されている。

 ほどなく登山口の稲荷神社。
 ここも新しく、あまり興趣がわかない。

 五日市へ戻るルートを考えずに来たのだが、上川町から変電所の横に入ってみた。
 ここにも山道があって、要所には道標も建っている。

 336メートルピークから北へ急降下するとまもなく穏やかになって、小峰公園の一角。
 一年と少し前に、ここから網代城址へ登ったのだった。

 市街地を五日市方面へ歩いていくと、そこそこ疲れたので駅近くのベンチで小休止。
 時間がまだあったので、五日市郷土館・旧市倉家住宅・五日市憲法草案の碑を見学した。

オドリコソウ
五日市憲法草案碑

 五日市郷土館では、五日市の古代から近代までの生活が概観できる展示がされていた。

 市倉家住宅は、ときどき見られる豪邸なのかと思ったらそうではなく、江戸末期から明治ころにかけての、おそらくごく平均的な民家を移築したものだった。
 このお宅でも養蚕を行っていたと、係の方が説明してくれたが、天井が高いから二階が蚕室だったわけではなく、一階で蚕を飼うには狭すぎだと感じた。

 五日市憲法草案碑は五日市中学校の校庭にあるのだが、ちょっと傷みが激しいのが気になった。