数日前の予想天気図は最悪だった。
列島上に秋雨前線が大蛇のように横たわり、雨が降るのは必至と思われた。
前日の夜にも雨は降っており、天候の回復はありえないように見えた。
だが出発当日の朝の天気図で、前線は消えていた。
北と南に高気圧が描かれていたので、前線が完全に消えたわけではないが、秋雨の活動が弱まって来たのだろうと想像された。
駅へ向かうときにも霧雨がまだ降っており、天候の劇的な回復は見込めなかったが、中央本線の車窓から見ると厚い雲が垂れ込めているものの、とりあえず曇り状態にまでは回復していた。
塩山駅を降りてみると、タクシーの運転手さんが知らん顔をしているので、嫌な予感がしたが、話しかけてみると「予約なんか知りません」という返事だった。
数日前に電話をかけたら「ジャンボタクシーはあいにくふさがってますが、普通車なら大丈夫です。ジャンボが動けるようならジャンボに切り替えます」みたいに親切なことを言われたのだが、どうもその話はちっとも伝わっていなかったようだった。
しかし「なるべく早く登山口に行きたい」というと、係員の方が会社まで行って、「ジャンボがあいているのですぐに回します」と言ってくれた。
ジャンボが使えると、交通費がずいぶん助かるのだ。
これはラッキーだった。
ジャンタクはけっこうなスピードで走っていくので多少怖かったが、登山口の三ノ瀬へはえらく早く着いたので、これまたラッキーなのだった。
そして天気もさほど悪くなく、わずかに青空なんかがのぞいていた。
和名倉山への道は、なんだかとてもラッキーな感じで始まったのだった。
将監峠への広い道を登っていく。
雨上がりで湿っぽく、他に登山者は誰もいない。
さほど歩かないが、七ツ石尾根の分岐で最初の小休止。
道ばたにハナガサタケが出ていた。
ここから本格的な登りとなる。
とはいえ、南アルプスと比べればとても穏やかな登りで、荷物の重さは仕方ないとして、さほど苦しくはなかった。
牛王院平は広いササ原だが、ササの丈が低いので、おりしも気持ちのよい風なども吹いて、快晴ならさぞ気持ちのよいところだろう。
この日もっとも苦しかったのは、山の神土からリンノ峰手前にかけてのトラバースだった。
腰ほどもあるササ(スズタケ)が道をふさぎ、濡れたササの葉がズボンを濡らした。
足元がよく見えないので、石や木に蹴つまづかないよう、気を使わなければならなかった。
尾根に出るとササの丈が低くなり、歩きやすくなる。
天気は悪くなく、展望はほとんどなかったが、やはり風が気持ちよかった。
このピッチは藪こぎにかなり消耗して、シャクナゲのなかの西仙波で小休止した。
西仙波から東仙波にかけては露岩もあって雰囲気のよいところ。
東仙波でルートは直角に左折するのだが、カバアの頭へ直進する踏みあとに入りかけて、すぐに修正。
ここからしばらく甲武信ヶ岳方面や雲取山方面がよく見えるはずなのだが、残念ながらほとんど展望はなかった。
コメツガ若木の樹林帯に入り、苔むしたいい感じのところも出てくるが、けっこう疲れてきた。
吹上の頭を巻いたところで最後の小休止。
ここまで来れば、テント場まであとワンピッチだ。
ところが八百平を過ぎたところで雨が降り出し、一時は本降りになりそうな勢いだった。
ヒルメシ尾根の分岐で合羽を着てしばしで、二瀬分岐下の幕営地に着いたのは15時過ぎだった。
ありがたいことに、雨は上がってくれた。
設営・水くみ・米とぎを済ませて、和名倉山の山頂へ。
ここでハナイグチが大収穫になる予定で腰カゴまでもって来たのだが、なんということか、ハナイグチなどちっとも出ていないのだった。
これは大誤算だった。
夜に入ってしばらくの間、鹿が近くに来て鳴いていたが、やがて静かになった。
気になったのは、どこからか聞こえてくるカン、カンという金属音で、和名倉山でこんな音が聞こえるはずなどないから、これはおそらく、遭難者の亡霊が音を立てていたのだろう。
翌朝、空を見上げてみると、明るい月は出ていたが、星は見えず、晴れているのか曇っているのか、よくわからなかった。
ともかく昨夜以来雨が降ってこなかったのは、幸運だった。
和名倉山の西の肩をかすめて北ノタルに降りる。
このあたりは、苔に覆われた中につけられた道だ。
ちょうど樹林越しに日が昇ってきたところだが、足元の苔が輝いて、とても美しかった。
苔帯を過ぎると北ノタルで、トラバース道に入る。
倒木さえなければラクなところだ。
尾根に出た索道あとで、小休止。
ここからやや急な下りになる。
傾斜が緩んでしばらくで尾根を外れ、標高差200メートルの急降下。
ここは石がゴロゴロしているので歩きにくく、疲労がたまる。
造林小屋あとの手前に大きな倒木があって、道を完全にふさいでいた。
造林小屋あとからの森林軌道は、懸念していたほど荒れてはいなかったが、以前にはなかった山抜けがあった。
反射板あとまで来ると下界が見えるのだが、ここからの下りがじつは、長い。
ここから急な下りが続くが、道は歩きやすくなる。
時間的に余裕があったので、尾根上で一度、小休止をとった。
大洞吊り橋はたしか人数制限があったはずだが、それらしき注意書きは見当たらなかった。
橋が改修されたのかと思って全員同時に渡ったのだが、渡りきったところに、「一度に渡れるのは五人以内」と書いてあった。
秩父湖バス停に着くと同時に雨が降り始めた。