- 城峯神社から神山 - |
【年月日】 | 2025年4月20日 |
【同行者】 | 単独 |
【タイム】 |
城峯公園(11:02)−城峯神社(11:10)−神山(11:52-12:32) |
【地形図】 | 下仁田 ルート地図 (マウスホイールで拡大・縮小可) |
明治17年10月31日の夜0時ごろ、陸軍の測量師・吉田耕作が、秩父郡矢納村の城峯神社で眠りについていたところ、同神社の小使いが狼狽して駆け込んできた。
続いて覆面の者ら数名が日本刀や火縄銃で武装のまま寝所に乱入し、耕作に向かって、「自分たちは自由党員である。今夜は、先生をご招待するためやってきた」と述べた。
一行はその後、城峰の山腹を下り、矢納村の間道を通って古峠に出たという。
作業員は無関係と思われたので、二人の作業員のうち、伊藤を解放させ、しばらく行くと門平に着いた。 20名ほどの暴徒に護衛されて、阿熊村の新井駒吉宅に着くと、5.60名ほどが列をなしており、座敷に通されると幹部が評議中で、机上には書類がおかれていた。 年配の幹部らしき暴徒から、「昨晩は大勢でご無礼申し上げ、申し訳なかった。今、人民が地方税や負債のために苦しんでおり、干戈に訴えるべきでないと説得してきたが、結果的にこのような暴動を起こさざるを得なくなった。信州・甲州にも伝令を送ってあり、味方もおいおい増えるだろう。まずは秩父郡一円を平均し、援軍の来着を待って埼玉県と戦い、コトなる日には純然たる立憲政体を樹立しようと考えているので、自分たちに助力してほしい」というようなことを、太閤秀吉を譬えにひいたり、西郷隆盛の事績を語ったり、国民のために一命を投げうつのが報国の義だなどと言って説得されたが、きっぱり断ったと、耕作は述べている。
その後、秩父困民党は下吉田村で警官隊と白兵戦を戦い、困民党・警官隊双方に死傷者が出る。
神社は現状・無住だが、大きな参籠所があり、かつては相当賑わっていたと想像できる。
拝殿の横かが登山口になっている。
最初からスギ林で、ほぼずっとスギ林が続く。 ミズナラの大木一本あり。
山頂は全く無意味に乱伐されていた。
山頂周遊路で大休止。
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