三波川界隈そぞろ歩き
- 妹ヶ谷不動・高山城址・高山社 -

【年月日】

2024年4月29日
【同行者】 単独
【タイム】

鉄塔下(13:29)−高山城址(14:17-15:02)−とりつき(13:47)
−諏訪神社・龍栖寺(15:36)−鉄塔下(15:47)

【地形図】 下仁田 ルート地図 (マウスホイールで拡大・縮小可)

 三波川の不動様へは、過去に二度、訪れた。

 一度目は、1997年12月。
 法久からブナン沢峠を越えて妹ヶ谷に下り、お参りののち石神峠を越えて法久に戻った。

 二度目は、今年2月。
 不動様から温石峠へ登り、バンバガヤを経て南小柏峠かもしれない地点から不動様へと戻った。

 いずれのときにも、境内に人影はなく、静まり返っていた。

三波川
不動の滝

 今日は、妹ヶ谷不動尊復活祭というイベントが行われる。
 かなり早く着いたので、境内をゆっくり散歩した。

 不動の滝は、三波川支流にかかる落差のべ七メートルほどの二段滝。
 水量が少ないので、迫力はない。

 精細な彫刻が施された本堂。
 重厚な石垣の上に建てられた鐘楼。

 鐘楼の上部には不動の石仏・庚申供養塔・芭蕉句碑・もう一体の不動像などが並ぶ。
 この中で、庚申供養塔はずいぶん珍しいもので、「庚」と「塔」の字の間に、猿か人間のような形のレリーフが彫ってあった。

庚申塔
鐘楼

 本堂下には杉の大木を配した石段に、青面供養塔。青面金剛の石像ならよく見るが、「青面塔」と彫られた供養塔はあまり見ない。

 お客さんも次第に集まってき、境内では地元の方らしき人々によるお店も開き始めた。
 ここで御赤飯を購入し、受付で、学業成就を祈念した護摩木を奉納した。

 法螺貝を抱えた一隊の人びとが登場して、イベント開始。
 藤岡のお坊さん数名による法要開始後しばしで失礼した。

 その後も、神楽・ロックバンドの演奏・怪談・ひょっとこ隊の演舞などが行われた模様。

 寺院なのだから法要がメインなのだろうが、それだけではお客さんは来ない。
 江戸や明治の時代であれば、花火や地芝居が付け祭りだったのだろう。
 しかし、寺社の祭礼における付け祭りがどのようなものであるべきかに、決まった答えがあるわけではない。
 大事なのは、境内が賑わうことなのである。

法螺貝隊
縁日の賑わい

 そのあと、高山城址登山口へ移動。
 登山口と言っても、登山口の表示があるわけでなく、そもそも登山道がない。

 地形図に載っていない送電鉄塔が目印になる。
 すぐ近くに高山城址の一部である百間築地の石垣あり。
 城の麓にさえ敵を寄せ付けたくないという、強い意志を感じさせる。

 荒れ地でツマグロヒョウモンが吸蜜していた。

百間築地
ツマグロヒョウモン

 鉄塔のわきから続く踏みあとははっきりしているが、アズマネザサのヤブが覆っていて、歩行困難。
 ひと頑張りでササヤブを抜けると、消え消えの踏みあとが出てくる。

 作業道らしきものもあるのだが、それがどこから来るのか、わからない。
 登り始めてすぐに要害。
 お宮があったらしき石段あととお祭りされていない石宮がおかれている。

 その先で踏みあとをロスト。
 鹿道をトラバースしていくと、三角点の下あたりに来るので、鹿道を拾いながらピークへ。
 まぁまぁ立派な堀切を越すのは大変そうなので、北側から三角点に回り込む。
 一角に植えられているシャクナゲはそろそろ終わりそうだった。

 高山城の城主は高山氏だと言われているようだ。
 山麓に住まいした高山家が城主だったのは、間違いなかろう。
 大軍を率いる武将ではなく、数十名の郎党とともに戦いに出かける小規模な国衆だったと思われる。

 国衆の常として、主君を次々に変えたとされるが、北条氏滅亡後は帰農して、高山村の草分け百姓となって引き続き一帯を支配したのだろう。
 高山社跡地が高山氏の屋敷跡だから、国衆高山氏は江戸時代に、広大な屋敷を持つ豪農となったのである。

 いつもの野菜ラーメンと御赤飯を食べたら、お腹いっぱいになって、動くのが嫌になる。

 下山は南西へ尾根を行く。
 堀切が続いて、防御性はしっかりしている。
 城主の首も大切だが、小さな村だから、村人の安全も併せて守る城だったのだろう。

 城はゴルフ場によって包囲されているので、小尾根から北へ下る。
 人の気配がするので、それを避けて北へトラバース。
 山道はないが、けもの道があるので、特に問題なし。

 しばしで、要害からの尾根に出た。
 あとは来たルートを戻った。

高山社長屋門
長五郎銅像

 下山後、登山口と反対側に回って、高山社跡へ。

 こちらは現在、建物を復元中で現状、完成しているのはトイレと長屋門と風呂棟だけなのだが、ボランティア解説員の方がていねいに解説してくださった。
 解説と案内で、たぶん一時間半くらいかかったと思う。

 生糸にかかわる産業は、蚕種製造・養蚕・製糸・揚げ返しなどを主工程とする。
 高山社が行ったのは、養蚕に関する技術革新だった。

 掲示物に、高山長五郎の清温育養蚕法の源流は小鹿野の浅香氏で、それが中里村の岩崎竹松に伝わったのが原型とあった。

 幕末以来、養蚕技術のマニュアル化と普及が試みられた。
 島村の田島弥平・児玉町の木村九蔵・高山村の高山長五郎らが養蚕のフロンティアだった。

 田島弥平は清涼育、木村九蔵は温暖育、高山長五郎の清温育はそれら二者の長所を取り入れた折衷育とのことだったが、この点について自分は、蚕の飼育は気温・湿度の特性に応じて環境を整える点に肝があるのではないかと考えている。
 つまり、温暖な地域では高温に注意し、寒冷な地域では低温に注意すべきだということ。
 情報館という施設に、地形に応じた養蚕法を示した掛け軸が展示されてあったが、この図が彼の理論の真髄なのではないかと思った。

 高山社が復元されるのはずいぶん先になりそうだとのことだったが、また訪れてみたい。