- 野栗峠からオバンドウ峠 - |
【年月日】 | 2012年2月5日 |
【同行者】 | 単独 |
【タイム】 |
野栗(10:53)−野栗峠(12:45)−明家(13:38)−オバンドウ峠(13:56)−間物(14:20) |
【地形図】 | 神ヶ原、両神山 ルート地図 |
明治17(1884)年9月30日のの夜に、群馬県神流川沿いの村々で、何者かの手によって、「借金のあるものは10月1日に野栗峠へ出よ。さもなくば焼き払う」などと記した「火札」が一斉に貼られた。
いうまでもなく、10月31日に武装蜂起する秩父困民党と連動した動きだった。
10月1日の野栗峠の集会にどれほどの人々が集まり、どんなことが話し合われ、何が決まったのかは、わかっていない。
同年5月に起きた群馬事件以降、上毛自由党がどのような組織活動を行なっていたかは、あまり明らかになっていないのだが、野栗峠における山林集会はおそらく、秩父におけるそれと同じく、いずれ武装蜂起に至る困民党の中核集団を形成する意味を持っていたのだろうと思われる。
ではなぜ、現在の中里村・上野村を包含する広大な民衆に呼びかけられた大衆集会の会場が、野栗峠なのか。
国道299号線の間物集落から明家に行く道の入口に軽トラをとめ、自転車に乗り換えて、野栗に向かう。
野栗集落に入ってすぐ、ゴミ集積所のわきに自転車をデポして、峠道を探す。
本道から峠道の入口は、「右 野栗沢ヲ経テ埼玉県秩父鑛山中津川山吹谷ニ至ル」とある道標が目印なので、わかりやすい。
まず、この道標の意味が、考えどころである。
広河原沢支流の山吹沢に行くには、野栗沢から所ノ沢を詰めて、六助峠を越えなければならない。
野栗沢と中津川を結ぶ峠で、現在も名が残っているのは、赤岩峠と雁掛峠だが、雁掛峠は名が残るのみで、ルートも全く不詳である。
そもそも、日窒鉱山が存在するのは小倉沢であり、山吹沢ではない。
ところでルートだが、小沢沿いに入るとすぐに、道が消えた。
早々にルートを失って、がっかりしたが、しばらく林道を行く。
しっかり使われている山畑のわきを登って行くと、屋敷か畑のあとに来る。
再び林道に出て、しばらく行くと道標があって、「源倉」と書かれていた。
実際にはもっと南に峠道の入口があったはずなのだが、沢状のところに入り込んでしまい、上部に見える送電鉄塔まで、消耗な急登ラッセルを強いられた。
鉄塔手前の尾根に上がると、それらしい道があり、さらに上へ続いていたが、これが峠道か巡視路かは、判断つきかねた。
明治17年10月1日の野栗峠における困民集会は、秩父からのオルグが来る際の便宜を図るために会場設定されたものと思われる。
石仏を過ぎ、林道に出たところに、「一越尾根」という道標があった。
しばらく林道を行き、「牛久保」の道標から峠道に入る。
よく踏まれた道を少しで、野栗峠に着いた。
峠から下るとすぐに林道を渡り、ゆっくり下っていく。
沢が近づくと、崩壊地となり、高巻きにやや気を使って通過。
ここからしばらくは、地形からして、明家への車道が峠道なのだろう。
とば口の家はかなり朽ちていたが、屋敷のわきには、巨大な杉が植えられていた。
わかりやすいところに間物と立処山への道を示した道標があったので、間物方面へのオバンドウ峠道に入る。
峠道に入ってすぐに、廃れた神社の灯籠を見る。
オバンドウ峠までは、平坦な道をすぐだった。
しばらくトラバース気味に行き、途中からジグザグに下る。ここは地形図と相違する。 開けたところからは、両神山八丁尾根の険悪な尖峰群が望まれた。
沢沿いまで下ると再び地形図通りのルートとなり、斜面に石積みなども見えてくる。 前方に間物集落の釣り堀が見えてくると、もう着いたようなものだが、峠の入口まで、国道にほぼ平行して道がついているので、すぐに到着というわけでもなかった。
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