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越生駅から慈光寺行きのバスに乗る。
少ない便だが、観光客にはありがたい。
慈光寺ができたのがいつ頃か、はっきりした史料はないようだ。
お寺では、673(天武2)年に釈慈訓という人が開いたのが最初だと伝えている。
なお、680(天武9)年に役の行者、その後釈道忠が開いたとも記されてあり、明確なことはわからない。
平安時代初期の871(貞観13)年の経本が残されているから、武蔵の国でもっとも古い寺院の一つであることは間違いない。
天台宗系の密教寺院だが、鎌倉時代初期には75の僧坊を擁する巨大な境内を持っていたらしい。
平安〜鎌倉期に、強力なパトロンが存在したと考えなければならない。
武蔵の諸武士団との関係が推察される。
宝物殿には、源頼朝の書状が展示してあった。
頼朝が慈光寺を保護した理由は何だったのだろう。
信仰としては、開基をめぐる諸伝から、天台密教と修験とが混淆していたことがうかがえる。
他の大寺院同様、その後衰微したが、江戸時代には、寺領100石の朱印地となり、宝物類を維持することができたようだ。
宝物殿にある徳川家康肖像画は、おなじみのものである。
観光客もほとんどおらず、静かな境内を散策し、宝物殿を拝観した後、観音堂を参拝して、わきの山道を登っていく。
車道に出てしばらくで、霊山院。
位置的に見て、慈光寺の塔頭の一つかと思われるが、こちらは禅寺である。
ゲートを通って林道をさらに行き、あずまやのあるところから急登して、登山道に入る。
登ったところには、石が点在しており、冠岩とか座禅岩といった名前がつけられている。
このあたりまで、慈光寺の境内だったのかも知れない。
植林された山腹を行くと、峠状のところにコナラにめり込んだ馬頭尊碑。
こんなになる前にはずしてやればよかったのに、コナラも気の毒だし、石碑も悲惨だ。
広いお茶畑を見ると、七重の集落。
山道の入口を見逃したので、しばらく車道を行ったが、林道わきのヤマザクラ大木を見ることができたのは、怪我の功名だった。
コナラにめり込んだ馬頭尊石碑
 | ヤマザクラ大木(大きな写真)
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舗装工事中の林道手前で、植林地内のショートカット。
コムラサキシキブの実が木漏れ日に輝いていた。
思わしい分岐がないまま、林道を行くと剣ヶ峰に行ってしまいそうなので、ちょっとした作業道の分岐を見つけて、そちらに入る。 ところどころに道標もあるので、当たらずとも遠からずといった道だ。
かなり急な道を少しで、松ノ木峠。
ここは本当の峠ではなく、最近名づけられた地名だろう。
展望はまずまずで、小川町方面がよく見えている。
コムラサキシキブ輝く
 | 新定峰峠から望む笠山
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堂平山はすぐだったが、山頂に用はないので、そのまま剣ヶ峰方面に向かう。
一ヶ月前とくらべてずいぶん、冬枯れた。
白石峠からは、先日のルートでなく、外秩父縦走大会の道標に従って、電波塔ピークをめざして登っていく。
道は途中からピークを巻いて、北東への尾根に乗る。
新しい植林地からは、薄靄の中に、両神山が望まれた。
新定峰峠手前の斜面には広葉樹が植えられたばかりで、笠山・堂平山の展望がよい。
定峰峠周辺の土産物屋は全て、戸締めになっていた。
新定峰峠から望む堂平山
 | 定峰峠入口の白山大権現石碑
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車道を渡り、反対側の尾根にとりついて、小ピークへ登る。
東側には、尾根に沿って林道が走っている。
たしかにそのように見えなくもない獅子岩を過ぎゆるく登下降していくと、旧定峰峠。
通る人は少ないはずだが、荷車が通れそうなほど道幅も広く、倒木もない。
ここからは20年前に通った道だ。
ここは、定峰の集落に出てからがむずかしい。
地元の人に尋ねながら集落内を歩いていたら、猟犬を連れた同僚に遭遇して驚いた。
バス停に着いてみると、次のバスまで1時間も待たねばならないので、大野原駅まで歩いた。
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