若御子神社
| 若御子神社の狛犬1
|
連日の農作業に疲れたので、骨休みに低山を歩いた。
行き先は、先日、矢岳から下山してきた際に歩いた尾根の末端である。
ここは15年前に歩いたことがあるのだが、その時には、若御子山の位置がわからなかった。
だから、若御子山に登るのが、今日の目標なのだった。
若御子神社の狛犬2
| 霜柱を踏みながら登る
|
清雲寺の駐車場に軽トラックをとめさせていただいて、まずは若御子神社にお参り。
秩父の神社らしく、狛犬はお狗さまだ。
そんなに古いようには見えないが、筋骨隆々とした、りっぱな体躯をしている。
若御子神社の由来記には、天平年間に創建され、神武天皇を祭神とする云々と記されているので、それだけを見るとまったくもって、得体が知れない。
社殿は慶長6年に若御子(廃村若御子集落のことか)造営され、大正4年に現在地に移築されたとあるから、こちらは由緒あるものらしい。
若御子山の入口は、神社のわきで、擬木の手すりつき階段で完璧に整備されている。
ほぼずっとスギ林の中なので、見るものはあまりない。
雑木はほとんど葉を落とし、コナラやホオノキの葉が道をうずめる。
湿度の高い斜面には、霜柱が立つ。
霜柱を踏んで歩くのは、小さな快感。
ホオノキの落ち葉を踏みながら登る
| 「国見の広場」から望む両神山
|
急登を登りきったところが、「国見の広場」で、展望用の櫓やベンチ、即道の石碑などがある。
櫓の上に登ってみたが、大展望というわけにはいかず、両神山にも立木の枝先がかかっていた。
ここから少し下り、ようやく平坦になった尾根を行くとしばらくで、若御子峠。
ここは一応、十字路になっていて、右は越集落へ、左は廃村若御子集落に通じている。
若御子山へは直進するのだが、踏みあとは薄い。
道のわきに「先祖代々霊神塔」と彫られた石塔と覆屋つきの赤いお宮があるが、覆屋は崩壊寸前だ。
廃林道のようなところを渡ると赤い鳥居に三基の木のお宮が並んでいる。
このお宮には、見覚えがあるが、以前、赤い鳥居はなかったと思う。
少し急登すると、基部がオーバーハングした、ちょっとした岩塔。
ボルトなどの人工物がくっついていないのが、好もしい。
この先をさらに急登したところが若御子山(標高735メートル)だった。
ここなら、以前も通ったはずだが、その時には全く気がつかなかったようだ。
というのも、この地点は、ピークではなく大反山の肩というべき位置にあるからだ。
ただ、ふもとからは、大反山の山頂は見えず、見えるのは若御子山なのだ。
だから、地元から仰ぐ山はやはり、若御子山なのである。
若御子山下の岩場
| 大反山直下の積雪
|
ともあれ、せっかくここまで登ってきたので、大反山まで足をのばす。
右が雑木林、左がヒノキ植林の尾根を行くと、大反山の北斜面には軽く雪が積もっていた。
大反山のピークは相変わらず愛想のない、植林地の中。
三角点をぐるっと回って、来た道を引き返す。
岩塔のてっぺんに登ると武甲山が見えるかと思ったが、木の枝が邪魔をしていた。
岩塔の下は石切場の跡だったが、ここから石を切り出したとは、驚きだ。
若御子峠からは、越への遊歩道を行く。
「憩いの広場」という休み場が作ってあったが、ここがフクジュソウ園なのだろう。
清雲寺にある満州移民慰霊碑
| 札所29番長泉院
|
下山後、船川の千手観音堂と清雲寺にお参り。
千手観音堂は明治初年の建物というが、小さなお堂なのに、施されている彫刻は精巧で、地域の人々による信仰の篤さがうかがえる。
清雲寺は、桜の時期の賑わいがうそのように静かだった。
境内の中心には、かつて札所13番の前に建てられていた満州移民の慰霊碑が移築されていた。
旧中川村からは、794名が中川村開拓団として満州閻家・楡林に送り込まれ、凄惨な逃避行の中で350名が亡くなり、168名が行方不明となった。
権力者に尾を振る者たちにより、史実の偽造が進みつつある。
だが、移転のいきさつを記した副碑には、「戦争の空しさ悲惨さを嘆ずるとともに永遠の平和を希求し」とあり、救われる思いだ。
|