二日目
朝のテント場から見た八ヶ岳(大きな写真)
|
来迎場付近にも石像が多い
|
前日夕方からの雨はひとまずあがり、朝の空は曇りだったが、ひどい雨の心配はなさそうだった。
明るくなると共に、奥秩父や大菩薩の見える方角の空が赤くなってきたが、雲のため、ご来光を拝むことはできなかった。
それでも、テント場からは、雲海に浮かぶ八ヶ岳連峰や、間近い鳳凰三山とその向こうの富士山などが望まれた。
この日の行程は、駒ヶ岳を越えるだけなので、いくらか気が楽だとはいえ、荷物はほとんど少なくなっていない。
歩き出しからハシゴの連続だが、高度がどんどん上がり、視界が開けてくるので、まずまず快適だ。
急登の途中で軽い雨がさらりと降ったが、その後、雨が降ることはなかったのは幸運だった。
ダケカンバの若木林を抜けて、ハイマツ帯に出ると八合目で、ここにも石造物が多い。
山に建てられている石造物は、自分(あるいは自分たち)の存在を誇示するのが主目的なのではないかと思われるものと、願掛けなど純然たる信仰心から建立されたものに大別されるように思う。
新しいものは前者に多く、古いものはほとんど後者であろう。
何故そんな感じがするかというと、新しいものと違って、古い石造物は山上まで空輸することなどできず、人の背に負われて持ち上げられたものばかりだからだ。
今の感覚では、重さ数十キロもの石を背負い上げることなどできるはずがないと思ってしまうが、以前、山小屋の構造材を背負い上げて小屋を建てた話を読んだことがある。
駒ヶ岳は、かこう岩の山だから、山の上で石材を切り出すこともできなくはないが、そんなことをしたら罰が当たる。
風化が進んでもなお、表情豊かな石像たちはおそらく、人力で持ち上げられたものだろう。
また、今でこそ、険しい岩場には鎖や擬木のハシゴがかけられているが、修験者(山伏)たちが修業の登山を行っていた時代には、これらの設備はほとんどないか、あってもその場作りの怪しいものでしかなかっただろう。
大衆的な登拝登山やレジャー登山が始まってからは、五合目小屋の古屋氏のような奉仕者が、登山道整備を一手に引き受け、登山者の安全を守ってきたのである。
山頂らしきところが近くなるが、遠目に見ると垂直の岩場で、ほんとに登れるのかと思ってしまうが、小さな登り下りを繰り返しながら、岩の間を縫っていく。
南側には北岳や間ノ岳も顔を出して、気分が盛り上がる。
鳳凰三山より高く登ると、背後の富士山が全体をあらわす。
八合目あたりからもはっきり見えた二本の鉄剣が、いつの間にか、目の高さになり、山頂の人影がはっきり見えてくる。
駒ヶ岳の山頂は意外に広く、展望は絶景で、中央アルプスの全山と御岳山、北アルプスのほぼ全山と乗鞍岳、霧ヶ峰と美ヶ原、浅間連峰、八ヶ岳全山、奥秩父と大菩薩山塊、鳳凰三山・富士山・仙丈ヶ岳・塩見岳以下、南アルプスの山々が望まれた。
ゆっくり休んで、仙水峠方向へゆるゆると下る。
北沢峠から登ってくる登山者が蟻のように多い。
かこう岩の白ザレをジグザグに下っていくと、摩利支天峰の分岐。
時間もあるので、ここはザックをデポして摩利支天峰に寄り道する。
摩利支天とは、インドにいたカゲロウの神で、実体がないため何ものにも捕まえられたり、傷つけられたりすることがない。
そのため昔の武士から信仰され、摩利支天を味方につければ、自分の身を守ることができると考えられていた。
摩利支天峰は遠望してもよく目立つ、甲斐駒ヶ岳のシンボルである。
山伏たちは、摩利支天峰を駒ヶ岳の守護神に見立てたのだろう。
山の神様に、失礼なことや迷惑をかけるようなことや暴言は、慎んだ方がよい。
以前も、秩父の四阿屋山で鎖場を登るのに苦労した人が、「何この変な山!」と言ったとたん、木の根につまづいて転びそうになったことがある。
駒ヶ岳から望む仙丈ヶ岳
|
コゴメグサ
|
駒ヶ岳は、あまり花の多くない山だったが、摩利支天峰にはミヤマコゴメグサ・イワオウギ・タカネツメクサ・イワツメクサ・ミヤマキンパイ・ムカゴトラノオなどが咲いていた。
分岐から今度は、駒津峰へ向かう。
いったん鞍部に下り、駒ヶ岳への直登ルートを分けて、登降を繰り返しながら、少しずつ登っていく。
登り着いた駒津峰は、駒ヶ岳の展望台で、振り返った駒ヶ岳がまことに大きい。
山頂近くには、タカネコウリンカがひと株、さかんに咲いていた。
駒津峰から振り返る駒ヶ岳
|
駒津峰のタカネコウリンカ
|
仙水峠への下りはシラビソの樹林帯の急降下だ。
駒津峰やここの下りでは、ハクサンシャクナゲがまださかんに咲いていた。
あまり特徴のない下りだが、標高2600メートルを過ぎたあたりにちょっとしたお花畑があって、トウヤクリンドウ・ミヤマシャジン・ミヤマコゴメグサ・アキノキリンソウなどが咲いていた。
仙水峠は、白っぽい岩や砂でできた駒ヶ岳とは俄然、雰囲気の違うところだ。
黒褐色の岩塊が積み重なっていて、あたかも編笠山や蓼科山などの火山のようだ。
これは、峠周辺の岩盤が少しずつ下方に動いてできた地形らしい。
急な下りはここまでで、あとは北沢峠に向かって最初は岩塊の上を行き、仙水小屋からは沢沿いの道を下って行くだけだった。
北沢駒仙小屋に着いたのは13時前で、予定より少々遅れたものの、十分ゆとりのある到着時刻だった。
この前ここで幕営したのは、17年前だ。
その時は、仙丈ヶ岳に登ろうと思って、長野県長谷村の戸台から戸台川沿いの登山道を、一人で登ってきたのだが、テントとフライの張り綱を、そこらへんの石で固定して寝たら、夜中に突風が吹いて来、フライシートがまくれ上がってテントが飛びそうになった。
フライがどこかに行ってしまうと困るので、丸めて中に入れ、テントが倒れないように一晩中、ポールと一緒に突っ張っていた。
おかげでテントは無事だった(今回使ったのはそのテント)が、ほとんど一睡もできず、翌日山に登る気力は完全に失せてしまい、とぼとぼと下山したのだった。
ここのテント場には、適当な石がたくさんあるので、まわりを見ると張り綱を石で固定している人が、相変わらず多かった。
それを見てると、17年前の苦い思い出がよみがえる。
突風など吹きそうにない駒仙小屋(昔は長衛小屋)だが、テントはしっかりと固定しないといけない。
仙水峠への下りで見たミヤマシャジン
|
北沢駒仙小屋(大きな写真)
|
ところで、駒ヶ岳から下山途中に、台風が北上して、日本に急接近しているという情報が入った。
その時点で台風の進路は不確定だったが、紀州沖で東に転向した場合、中部山岳が大荒れになる可能性があると思われた。
3日目は仙丈ヶ岳を越えて両俣小屋に向かう予定だったが、このロングコースを雨の中、強行するのはとても不可能だった。
同行者の気持ちを考えると、3日目午前中の天候が許されるなら、仙丈ヶ岳をピストンしてから下山ということも考えられたが、北沢峠から広河原、さらには甲府行きのバス便がいつ途絶するかわからない状況では、早めに下山するのが得策と思われた。
下山すると決めたなら早いほうがよいのだが、広河原で甲府行きに接続するバスは出たあとだったので、この日はここで幕営し、翌朝の一番バスで下山ということに決めた。
三日目
天気は結局、夕方まではもったが、夜半からは雨が降り出し、前日に続いてテントはびしょぬれになった。
とはいえ、本格的な降りにはならず、小雨程度の雨が降っている間にバスに乗れたのは、幸運だった。
広河原行きのバスは都合4台出たが、下山を急ぐ登山客で超満員だった。