ママコナ咲く尾根
−御陵山−

【年月日】

2024年7月31日
【同行者】 単独
【タイム】

馬越峠(8:11)−御陵山(9:33-10:08)−馬越峠(11:18)

【地形図】 信濃中島 御所平 ルート地図

 朝出発しても間に合うのだが、前夜発、高速経由で出かけた。
 登山口に着いたのは、あまりいい時間でもなかったが、駐車スペースに車は一台もなかった。

コオニユリ
カワラナデシコ

 尾根に上がると、カワラナデシコが目に入る。
 コオニユリは、一株しか見なかった。
 ママコナがいたるところに咲いていた。

 登り下りもほとんどなく、おおむね平行移動。
 部分的に小さな岩場もある。
 北側に御座山が近いが、ガスっている。

ママコナ
モリノカレバタケ

 標高があるので、そこそこ涼しく、ちょっと汗ばむ程度。
 どこまでも、平坦な尾根が続く。

 送電鉄塔でやや展望がひらけるのだが、曇っていて天狗山さえ見えなかった。
 まぁ、暑いよりよかったと思う。

天狗山
川上村

 御陵山の祠のあるところまで、さほどかからなかった。
 このピークで雨乞いに使われたらしき鉄製品800点余りが出土したという説明板があり、びっくりしてしまう。

 大休止していたら、ガスが少し晴れてき、天狗山が見えてきた。
 また。川上村のレタス畑や飯盛山かと思われる双耳峰もも見えた。
 八ヶ岳が゜見えるにはまだ時間がかかりそうだったので、下山にかかる。

不戦の像
北相木・諏訪神社

 この日はできれば南相木村で竿を振りたかったのだが、フィッシュパスのアプリを使っても釣り券を買うことができなかった(南佐久漁協のページを開いてもカートがあらわれない)ため釣りは諦めて、北相木村経由で帰宅することにした。
 まず、南相木村から小海町への村境にある不戦の像へ。

 南相木村と北相木村ができたのは永禄8(1565)年とある。これはすごいことで、佐久地方が武田信玄の支配下に入ったころだから、450年ほどの歴史がある。
 江戸時代以前から存在している日本の自治体は少ないのではないか。
 明治・昭和・平成の町村合併でも独立を維持し続けた。補助金が欲しくてドタバタ合併して歴史と由緒ある自治体名を投げ捨てた日本中の市町村は、ここの爪の 煎じて飲めといいたいが、もう遅い。

 不戦の像の建つこの場所は、出征兵士を送った場所だという。台座の銘文を読む。

 過ぎし戦いの日 ここ別れの松の下で 征途につく若者たちが 万感を胸にいだいて 愛する家族や村人に別れを告げ その多くが帰らぬ人となった。
 戦後すでに四十年 往時を偲び この尊い犠牲を決して無にしてはならないと 平和への悲願をこめ 村民相はかって ここに「不戦の像」を建てる。
 昭和六十年九月二十三日 南相木村

 戦争のいたましさを忘れまいという決意を感じさせる。

 次に、北相木村の諏訪神社へ。

自由民権の雄叫び
北相木・大龍寺から御座山を望む

 北相木村の自由党員、菊池貫平と井出為吉は、明治17年10月末、秩父郡三沢村の萩原勘次郎に招かれ、国会開設運動に参加するつもりで秩父に向かった。
 秩父に来てみたら負債問題解決のための運動だと聞かされ、一旦は「それじゃ帰る」と言ったが、武装蜂起の当日には、貫平が参謀長、為吉が軍用金集め方と、困民軍の最高幹部に就いた。
 為吉は富豪から軍用金を集めた際、領収書に「革命本部」と署名し、貫平は、困民軍本陣が総崩れになったあと、残存勢力を率いて群馬県から長野県へと転戦し、東馬流で壊滅するまで戦った。

 1984年10月28日に、貫平宅にほど近い、北相木村の諏訪神社に「自由民権の雄叫び」と題された立派な石碑が建立された。
 おぼろげな記憶だが、自分も、この碑の除幕式のすみっこで、話を聞いていた。
 その数年前まで内閣官房長官を務められていた井出一太郎代議士が、静かに参列しておられたことが印象的だった。碑文には明治17年の村戸数250戸で秩父事件参加者約200人とある。

 最後に大龍寺へ。
 明治の初めごろ、井出為吉らはこのお寺で学習会を開いていたという。
 学習会のテーマやテキストが何だったのか、どのような運営がなされていたのかなどは伝わっていないが、為吉宅に伝わるフランス革命史や法律書を見れば、彼らの関心がどこにあったかがうかがえる。

 明治初年は、知識に餓えた若者たちが集団で学ぶ時代だった。
 一つの典型が、五日市学芸講談会だった。

 すっかり晴れて、高台に建つ大龍寺の山門からは、御座山の勇姿が望まれた。
 為吉はいつもこの景色を見ていたのだなぁと思いつつ石段を下った。