ダンコウバイ咲く道
− 鞍骨城址 −

【年月日】

2011年4月17日
【同行者】 単独
【タイム】

招魂社(7:432)−瑠璃殿(8:19)−天城山(9:14)
−鞍骨城址(9:53)−招魂社(11:28)

【地形図】 長野 信濃松代 ルート地図

鞍骨城址から鹿島槍(大きな写真)
ミヤマウグイスカグラ(大きな写真)

 招魂社の先に自動車をとめる。
 招魂社は、その名のとおり天皇に殉じた人々を合祀した神社で、境内には忠魂碑も建てられている。

 建立されたのは明治2年で、当時の松代藩主・真田幸民が、戊辰戦争の際に官軍兵士として死んだ52名を祀ったのが神社の始まりである。
 真田氏は、小さいながらも地域の小領主として東信濃に地盤を築いてきた戦国時代の雄である。
 武田信虎・信玄の幕僚として活躍し、武田氏滅亡後は豊臣秀吉の家臣として徳川家康とも戦ったが、真田信之以来、徳川家に従って、松代13万石の領主としてこの地を支配してきた。

 江戸時代中期以降は、彦根の井伊家や白河の松平家から養子を迎えているから、元祖真田氏の流れは途絶えている。
 近隣の諸大名も競って官軍に合流しようとする中で、徳川家打倒の戦争に直面して、有力な譜代・親藩の血を引いた真田家の藩論は、どうだったのだろうか。

エナガ1
エナガ2(大きな写真)

 林道のような広い道をしばらく行く。
 野鳥の声が賑やかで、いい感じだ。

 分岐からは、斎場山方面に行く。
 上杉謙信が在陣した斎場山のピークは、五量眼塚古墳という古墳である。
 謙信は、墳丘の上に陣を構えたのである。

 謙信の陣営は一万数千人と言われるが、ピークには数十人が陣取れば満員になりそうだ。
 越後軍は、ここから麓にかけての一帯に、屯集していたのだろう。

 さらに平坦な尾根を行くと、小ピークを越える。
 と思ったら、そのピークは、土口将軍塚古墳という、堂々たる前方後円墳なのだった。
 前方後円墳といえば、古くから水田が築かれたような盆地や平野に作られたという偏見は、捨てなければならない。
 この大古墳を築造させた財力は、何によるものだったのだろう。

 尾根の末端の薬師山まで行ってみると、瑠璃殿と彫られた渋い刻字額のかかった小さなお堂。
 内部には、石仏が五体、大切に祀られていた。

カシワの道
カタクリ咲く

 分岐に戻り、天城山方面への林道に入る。
 あんずの里ハイキングコースという道標が立っているが、軽トラックが走ってきそうなほど、広い道だ。

 ハイキングコースから天城山への分岐に入ると、普通の山道になる。
 ダンコウバイが至るところに咲いている。
 地味な花だが、たくさん咲くので、斜面全体が華やかに見える。

 天城(てしろ)山は、ありふれたピークだが、ここも墳丘で、山頂には、壊れた石室がそのままになっていた。
 そこを下ると二本松峠で、道標には、左に行くと清野、右に行くと倉科・森・あんずの里、直進は鏡台山とあった。

川中島と飯綱山
コゲラ

 このあたり、カシワの木が多く、登山道がカシワの落ち葉で覆われているところもあった。

 鞍骨城址に近づくと、トリカブトやカタクリの群落。
 カタクリは、かろうじて咲き始めていた。
 咲いたカタクリを見たのは、今年はじめてだ。

 城址であるにもかかわらず、山頂直下には、空堀が健在で、スムーズに登っていくことはできない。
 いくつかの空堀を乗り越えると、ケヤキらしき大木のある広場で、山頂はその上なのだが、石垣が築いてあって、容易には登れない。
 一度東側に回りこむと、踏み跡があって、山頂に登ることができた。

招魂社のサクラ
松代城から奇妙山

 山頂からは、樹林越しだが、北アルプスの全景を望むことができる。
 白馬三山、五龍岳、鹿島槍、常念岳などが顕著である。

 足元には合戦の舞台となった善光寺平と屈曲する千曲川、その向こうに飯綱山と戸隠山が見える。
 市街地の風景を無視すれば、謙信が見ていたのも、同じ風景だっただろう。

 帰りは、鳥の写真を撮りながら、来た道を戻った。
 下山した時刻が早かったので、松代城(海津城)跡と真田宝物館を見学した。
 いずれも興味深く、あっという間に時間がたってしまった。