ブナとヒメシャラの尾根
- 果無山脈 -
【年月日】 |
2009年3月21日 |
【同行者】 |
単独 |
【タイム】 |
3/21 キャンプ場(8:28)−和田ノ森(10:01)−安堵山肩(10:39-10:45)−安堵山
(11:08)−展望台(11:20)−黒尾山(12:00)−冷水山(12:25-12:35)
−水場分岐 水場往復(13:00-13:40)−公門沢の頭(14:25)−筑前タワ(14:47)
−茗荷タワ(15:11)−大谷源助墓分岐・墓往復(15:39-16:11)
−百前の森・萩分岐(16:26)−ブナの平(16:33) 幕営
3/22 ブナの平(6:02)−石地力山(6:26)−果無山(6:48)
−果無越(6:52)−迫西川・上湯川分岐(7:07)−
果無観音堂(7:16)−山口茶屋跡(7:54)−果無(8:17)
赤い橋(9:00)
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【地形図】 |
恩行事、発心門、重里、伏拝、十津川温泉 ルート地図
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棚田
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畑のシキミが咲いてた
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1日目 (ブナの平まで)
カワセミの郷キャンプ場から小森の集落に向かって、車道を歩き始める。
ウグイスやシジュウカラがさえずり、カワラヒワやホオジロが遊ぶ山村の風景は、秩父と変わりない。
自分のところと異なるのは、美しい棚田か築かれている点だ。
田んぼや畑の周りに植えられている木はお茶でないと思ったら、シキミだった。
宇江敏勝氏の本に、山のシキミをとって売る話が出ていたのを思いだした。
最奥の家のわきから、登山道に入る。
ほぼずっと、スギの植林地。
見るべきものはほとんどない。
ずいぶん登ってようやく和田ノ森。
雑木林のピークだが、ヒメシャラ、アセビ、コナラ、モミなどが生えているので、関東の雑木林とはやや風情が異なる。
シジュウカラやヤマガラの声がとても賑やかで、望遠レンズを持ってこなかったことを、一瞬悔やむが、久々の重荷なので、やむを得ない。
約2時間登って安堵山の肩。
ここで小休止。
小鳥の声が聞こえ、キツツキが木を叩く音が響いている。
目の前は伐採地で、北側が開けている。
造林作業の最中で、チェーンソーの音も聞こえるが、地拵えが始まっているのだろうか。
登山道が未舗装の林道によって消えているので、消え残った登山道と林道を出たり入ったりしながら進む。
枯れ始めたスズタケをがうるさい安堵山を越えると、舗装された道路との変形十字路。
ここからは南側の展望がよい。
再び尾根にとりつき、ブナとヒメシャラの尾根を緩やかに登ると黒尾山で、冷水山が見える。
急降下して登り返すと冷水山の肩で、山頂まではすぐだった。
山頂では、緩やかに飛ぶヒオドシチョウが迎えてくれた。
ひと気のない山域ながら、山名プレートが賑やかで、南側と北側が伐開されていて、熊野の山々と高野山方向の山々が望まれる。
紀和の山々指呼するのは難しいが、だいたいの方向ならわかるようになってきた。
ヒオドシチョウが多かった
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ヒメシャラの樹肌
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緩やかに下っていくと、ブナの大木が目立つ。
ヒメシャラが多いのを除けば、周囲の雰囲気は、甲斐の山とさほど変わらない。
といっても、ブナ林は尾根の上だけで、尾根直下の南側には二次林、北側にスギの植林が迫っているのが残念だ。
ウダイカンバが多くなり、ブナの大木が散見されるところに水場分岐のプレート。
ザックをデポして水くみに行く。
片道10分と書いてあったが、行ってみると、いい水場ではあったが、往復40分ほどもかかった。
公門沢ノ頭はかなりの急登。
登りついてみると、尾根の上に防獣柵が設置してあって、道が消えている。
ここは不便だが、ヤブこぎで通過。
筑前タワの手前は、ミヤマシキミの下生えの平坦地。
ここで幕営するのもよいと思ったが、翌日が雨予報だったので、さらに進んだ。
筑前タワで、尾根道と巻き道が分岐する。
やや疲れてきてもいたし、1996年に横道を刈ったという表示が吊してあったので、巻き道に入ったが、踏みあとはあっけなく消滅。 ラクをしようとしてバカを見た。
茗荷タワでも明瞭な巻き道があったが、ここは尾根を直進。
陽が西にずいぶん傾き、自分の影が、前方に長く伸びるようになった。
ブナの平の手前に、大谷源助墓まで5分という小さな道標。
大谷源助がどのような人物か、説明がないのでさっぱりわからないが、とりあえず下ってみる。
急なところをけっこう下るので、登り返すのが大変そうだったが、10分ほど下ったところに小さな石垣があり、「大谷源助之墓」と彫られた墓石が立っていた。
この人についての解説はここにもなし。
わかるのは、明治26年8月6日に行年78歳で亡くなったことと、「長□(欠落) 市太郎」「猿飼 栗栖徳之進」という建立者の名前だけである。
地名の「猿飼」は十津川村の地名だから、建立者は地元の人である。
もっとも疑問なのは、何故このような山中に墓が建てられているかということだが、この点については機会があれば調べてみたい。
尾根に戻り、緩やかに下っていくとブナの平下の平坦地。
幕営にはここがよさそうだったが、雨水が流れてきそうな気もしたので、ピークに急登して山頂の一角でテントを張ることにした。
ブナの平から熊野川を望む
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雨のヒメシャラ林
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ブナの平のピークからは、熊野川が大きく蛇行しているのが見える。
熊野から三重県境方面が見渡せて、気分のよいところだった。
ここで問題が起きた。
テントを張ってから初めて、着火具を忘れてきたことに気がついた。
普段は、ポーチの中に入れておくし、予備のライターを小間物袋に入れておくのだが、今回はそのいずれにも、ライターが入っていなかった。
仕方がないので、夕食はパン1個と煎餅数枚、翌朝は非常食の乾パンと残りの煎餅で食いつなぐことにして、眠りに就いた。
こんなことなら、せめて酒でも持ってくればよかった。
果無越の十七番観音
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果無観音堂
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到着時には晴れていたのだが、その後すぐに南の風が吹き始め、雲が広がってきた。
風は次第に激しさを増し、木々の鳴る音がずいぶん大きくなって、テントも揺れるようになった。
さらに夜半には、テントを雨が叩き始めた。
2日目 (十津川まで)
その後風雨が強まり、雷雨となる予報だったので、翌朝は早々に行動することにした。
雨中の撤収は気が進まないものだが、風が強いものの、雨はさほどでなかったので、薄明るくなった6時過ぎに石地力山に向かって歩き始めた。
右側が植林、左が二次林で、尾根上だけがブナ林という尾根を行くと、ちょっとした露岩のピークがあって、その先が石地力山だった。
晴れていれば、露岩ピークから冷水山が見えただろうに、残念だった。
ゆるく登って果無山の表示のあるピークを越えるとどんどん下って、果無越まではすぐだった。
峠には、部分的に欠けた石造物と、札所17番と彫られた石仏が立っていた。
ここからは熊野古道(小辺地)なので、道幅が広くなり、整備も行き届いて歩きやすくなる。
しばらく歩くごとに西国札所の石仏が建てられており、歩く目安になったが、雨のためいくつかは見落としてしまった。
4つ目の石仏は果無観音堂わきに立っていた。
雨が少し強くなったので、お堂の軒下で少し雨宿り。
ここには水も引いてあるのだった。
下っていくと、周囲はスギの植林ばかりとなるが、これはこれで現在の熊野古道らしい雰囲気である。
山口茶屋跡は、いかにも茶屋跡らしい平坦地。
屋敷の建っていたわきと思しき位置に、スギの巨木が数本。
これはとても壮観だった。
巨大なスギの古木が、どれが主幹かわからないほど、太い幹を自在な方向へ何本も伸ばして林立するさまは、雨とガスの中で一種妖しい雰囲気をかもし出し、空腹だったことも手伝って、ダル神が出現するのではないかと思われるほどだった。
果無集落が近くなると、天水田跡。
天水にのみ依存する水田は、豪雨地帯である熊野だから可能になったのだろう。
しかし、田の位置は果無集落からずいぶん登ったところだ。
獣害は泊まり込み以外に防ぎようがなかったのではないか。
果無集落
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十津川では桜が咲いてた
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前方が開けると、原木シイタケのほだ場で、果無の集落。
尾根の上に村ができているのだが、水田もちゃんとある。
沢からの引水によって、巧妙に灌漑ができているのだ。
田の作業はさすがにまだ始まっておらず、畑にはビタミン菜がすくすくと成長していたものの、天気も悪かったため、人影は見えなかった。
ここでまた、人家の軒先で雨宿り。
車道の通じる集落まで来たといっても、十津川へはまだずいぶん下らなければならない。
ここからは、石畳の残る古道らしいところだが、雨の石畳は滑りやすく、歩きにくかった。
十津川に着いてみると、川べりの桜が3分咲きといったところだった。
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